「夏の終わり」 セバスチアン・リフシッツ監督インタビュー  (2001/7/13)

7月21日 13:45より上映
「夏の終わり」解説ページ 

質問: 『夏の終わり』は、あなたの前2作とは全く異なっていますね。

「私は何か新しいものを作りたいと思っています。特に、自分自身の作品を踏襲することはしたくなかったのです。むしろ前に進みたかった。そこで( 今回の作品では)感情をより柔和で微妙な映像で表現したのです」

質問: あなたの作品では、頻繁に3つの季節(冬、夏、秋)が混ざり合って構成されています。こうした形式は当初から意図していたのですか。

「そうです。もう一度、断片的なナラティヴ(説話/話の流れ)から構成されている、けれども『Les Corps Ouverts』(1997/1998年ジャン・ヴィゴ賞受賞)とは違うものを作りたかったのです。 今回、<省略>が強調されています。主人公のマテューに関する物語の肝心な部分は、あえて省略しています。つまり、観客はナラティヴを再構成し、何が起こったのかを創造しなくてはいけないのです。これは脚本の筋以外の要素に頼ることができるという意味で面 白いと思います。もし、本質的な省略を伴う断絶をそこに見たとしたら、脚本の連続性は必ずしも重大なことではなく、登場人物がナラティヴ上の手がかりを盗んでいるということなのです。映画を導くのは登場人物であって、もはやある法則に則った脚本ではないです。結果 的 に、私はすごく自由になった、ある意味で、何でも許されると感じています。 私の作品は本質的に肖像画の発想を中心にしています。これは個人を取り上げ、彼あるいは彼女の内的風景、内的宇宙とでも呼べるものを描く試みです。断片的 なナラティヴは私のそうした手法を助けてくれるのです」

質問:そうした時間の断絶はある種のミステリーを提示してもいますね。

「省略は登場人物における<ミッシングリンク>を作り出し、それらに不透明さをもたらします。これらのほの暗い中間帯(twilight zone)が映像には必要であるように思われます。それによって、観客に彼自身を同定させ、そこに彼の場 所を見つけさせ、登場人物に向かう感情の動きを創り出す説明を辿らせることができるのです」

質問:異なる時制(のカット/ショット)の組み合わせは編集段階で為されたのですか?

「いえ、違います。編集作業は主に映画のリズムにかかわっています。最初は、シークエンスはもっと長かったのです。私達はそのいくつかを動かし、残りのシ ークエンスのほとんどすべてを短くしました。これは、映画に<切断>を、時として荒っぽい制限をたらします。私達は決して何か、気候的な瞬間にさえとどまることを望まなかったのです。私達は情緒的過ぎると思われる物語の筋は機会的に壊そうとしたのです。私はまるで<難解な>映画を作っているかのような、こうした表現の抑制を好むのです。ある種の謙虚さから、私はこうしたことを行う自分自身を責めると同時、距離を取ることが必要です。あるタイプのシーンから 生み出される情緒性を受け入れることが、私には今なお大変な困難なのです。私にはしばしばそうした情緒性が陳腐に思われ、私自身を非難する傾向にあるのです。当然、私は少し主人公に似ています。私は自分の感情を表す方法を見つけることが難しく感じます。私はこのことが私と映画の両方にとって抗いがたいものになることを恐れています」

質問:いくつかの撮影ショットはとてもぶっきらぼうなものです。これは感情に関するあなたの抑制や謙虚さを相殺する方法なのでしょうか?

「おそらく、それは(感情に対する抑制や謙虚さと)対位的なものです。しかし、 それはまたセクシュアリティに対して私が謙虚ではないという事実を示してもいま す。セックスに対する私の態度は、陽気で自由なものです。この映画のなかで、私は幸福で輝くようなあり方でセックスを発見することを示したかったのです。私は私が撮影したものが鑑賞に耐えうるものであることを願い、そのイメージを浄化したくなかったのです。砂丘で2人の人物が愛し合うという中間のショットは、それが男性と女性であろうと、2人の男性であろうと、とても美しい。(男女であろうと、 男性同士であろうと)同じことです。私はホモセクシャリティを熟慮しているわけではありません。私にとって、彼らは互いに欲望し合い、その欲望を自由に経験する2人の個人なのです」

質問:マテューがマスターベーションをしている場面 の冒頭のマテューの性器のクローズアップは、蛇足のように思われるのですが。

「そのショットはそれまでのショットからの断絶を示しているのです。そして、そ れはとてもショッキングなものです。なぜならば、集団意識においてはマスターベーションはしばしばタブーとされているからです。そのショットは私達がそれぞれに性的に孤立していることに言及しているのです。しかし、私は遠まわしにそのことを言うのではなく、セックスを前面 に出して示すために、映画の冒頭をそのようにしたのです。それに、この脚本、この状況設定は主人公を思春期の枠組みのなかに置くものです。私にとって、このイメージは自由に与えられたものではなく、後の他のイメージをひきずっているものなのです。ある場面 が残りの場面から突出し、観客を少し戸惑わせることが私は好きなのです。浜辺で踊っている場面 のように。観客はなんでこの場面がここにあるんだ? と不思議に思うことでしょう」

質問:それに、暗がりのなかでエキセントリックなダンスが続くこのシーンは、とても短い。あなたは完全にはそれを受け入れていないのでは…

「謙虚さのせいではなく、リズムのせいで私はそれをカットしたのです。それは彼らが通 りにいる後のシーンにも続いていくのです。それは楽しい瞬間です。そのシーンはどんな振付にも基づいておらず、まったくの即興です。私はそのシーンがそのよう なエキサイティングなダンスの瞬間になることは望んでいませんでした。映画というものは、イメージに作用するものではないのです。私はある種の映画によって代表されている<ホモセクシュアルフォークロア>と呼ばれるようなものが嫌いです。その <ショータイム>のようなスライドは現実から完全に切り離されていてエンターテイ メント的で滑稽です」

質問:それが全体的に個人の内面を大きく取り上げるような映画制作を主張するということでしょうか?

「私はほとんど無意図的に個人の内面を大きく取り上げるような作品を作っています。 私が本当に好きなのは現実を取り巻くものに接近し、それを映画にすることなのです。 しかし、これまで私はそれを行うことが不可能だと感じていました。動き始められるうになる前には、始める際には私自身の『碑文』、を通 り抜けるべきだと、要するにまず最初に<私は>と言うべきだと信じていました。私はときどき生まれたばかりの赤ん坊であるかのような印象を得ます。それはまだ話すことも歩くこともできないけれど、 その理解力の限りで世界を単純に観察しているということです。根本的に私の視点は避けがたく限られたものです。つまり、唯一私が描写 できることは、私にとって最も身近な環境、私自身の身体なのです。不幸にも、私の肖像はまだなお全くナルシスティッ ク で内省的なもので、それは私が私自身の身体や感情を理解しようとしている場所なので す…。この作品の主人公マテューは彼自身を発見しようとし、あらゆる場所に行くために何かと調和したり離れたりします。『夏の終わり』が描いていることはとても単純なことなのです。私が映画にしたことは多くのことではありません:(自分自身を) 構築中の個人を描いただけなのです。つまり、それがタイトル(注:『夏の終わり』の 原題『Presque rien』 は、フランス語で『ほとんど〜ない』という意味)なのです」

質問:マテューとセドリックとの関係は、私たちがその理由を知ることなく終わりますが…

「映画の主題は、進展するカップルを創り出すことではありません。私はあらゆる心理学が意味するような人間関係の背景の歴史をなぞることはしたくないのです。私は本当に、 人生のある時点でまだなお進化しつつある人物を表現し、しばらくの間彼を追うことがしたいのです。マテューは、アンバランスな時期にいます:彼は家族からの自由を手に入れ、 思春期に別れを告げます。そのとき彼は彼自身のホモセクシュアリティと、彼が愛の渦中 にあることを発見するのです。それらすべてが彼のなかで混ざり合い、彼を混乱させるのです。彼の家庭的背景もその混乱にかなり重くのしかかります:父の不在、母の欝病、 兄弟の死、そして彼自身の強いメランコリーと欝状態の傾向」

質問:マテューの脆弱さはまた、彼の初体験に対する感情と向き合うことから生じているのではないですか?

「セドリックと出会うまで、マテューは自分の感情を押し殺してきました。彼が見つけた鳥のエピソードはこのことを説明しています。鳥の死骸は彼には触れません。死は彼にとって抽象的なものなのです、おそらく彼の兄弟の死がそうであったように。しかし、セドリックとの出会いはすべてを加速させ、ある記憶や脆弱さを蘇生させます。なぜならば感情が湧きあがり、決断はなされるべきこととなり、彼は観察されているからです」

質問:マテューの母親はとても悲壮な人物ですね。

「私達はこうした人物に含まれであろう感情というものをより力説したかったのです。 脚本を執筆しながら、実際に私はよりメランコリックな何かに魅せられていました。けれど、共同執筆者であるステファン・ブーケは、そのことに対して私に警告しました。その人物が映像全体を呑み込み、それを何か別 のものへとひっくり返してしまう穴のようになりつつある、 と。私は彼の指摘は正しいと思いました。その後、私達は映画の流れを変えないように注意しました:マテューの性格、息子のことを思うと幾分興奮してしまう彼の母親の鬱病は二次的な重要事項となりました」

質問:この映画の時間的構成は、明確なスキーマ(枠組み)を用いることなく鬱病を表現する ことを可能にしています。その感情はそこに存在していて、あなたはそれに焦点化していませ んね。

「鬱病は私のなかの神秘なのです。この点で、精神科医の人物は啓示的です。彼はマテューの 自殺未遂について説明を議論することを私達に促しますが、しかし彼自身は何も言わず、私達に推測させるだけです…私の考えでは、鬱病や自殺未遂はとても複雑な出来事で、いくつかの心理学的説明に還元することができないのです。私はむしろ、結論に辿りつくことなく映画全編を通 して複数の答えの軌跡や発端をなぞりたいと思いました」

質問:セドリックとマテューの出会いはとてもロマンチックですね。

「ほとんど感傷的なもので、私はそうした方法を望んだのです。私は『Les corps ouverts』 よりもタフなセクシュアリティを表したかったのです。しかし、私は映画のあり方に私自身を閉 じ込めることは望んでいません。私にとってホモセクシュアリティはサウナや売春宿や逸脱したセクシュアリティではないのです。この映画の支柱はホモセクシュアリィティについての疑問を提出することではないのです。これは単純に初恋についての映画なのです。マテューが母親に彼が男性を愛しているというとき、それは劇的な事件にはならず、受容されます。私は彼のホモセクシュアリティを問題にしたり、あるいはそれを劇的な事件にしようとしたのではないのです。 登場人物をそのセクシュアリティに還元することは私には興味がないのです」

質問:マテューよりもセドリックの方がたくましいように思えます。

「彼はマテューよりも地に足がついていて、人生に正面から体当たりし、人生を楽しもうと決心しました。彼はそうした強さを授けられています。セドリックとマテューはお互いにとても対照的です。あなたはマテューが息が詰まるような社会的環境と和解するための根拠と得たと感じるでしょう。彼がより荒っぽい「社会に手を出せ」といような性格を持つセドリックに 魅せられたことは偶然の一致ではないのです。彼の傲慢さがマテューに広がったのです。それを表現することが完全に出来ていなかったけれども、マテューは内面 の深い部分では(セドリック と)同じことに憧れていたのだと私は信じています」

質問:出演者はどのようにして選んだのですか?

「二人の若い男性については、当初から身体的に不釣合いな出演者を探しました:一 人は痩せていてほとんどフェミニンで、対照的にもう一人はがっしりしていて、力強く、地に足がついている。ステファン・リドーは『野生の葦』(アンドレ・テシネ)などの何本かの映画で観たことがあり、彼ならセドリックを演じられるとはっきりと思いました。ジェレミ−・エルカイムに関してはこれまで、私達はお互いに相手のことを少ししか知りませんでした。 私は彼が出演した短編映画を何本か観たことがあります。それらの映画では、彼はいつもある種生き生きとしたふるまいをしていました。(今回の役は)身体的な部分では彼に合っていましたが、 彼を実際の姿とは異なるように存在させ、異なるにように見えるようにすることは私にとって挑戦 でした。彼は現実の生活ではとても活発で屈託のない人物です。しかし、私は結局のところ彼の役がほとんど尊大でうぬ ぼれた外見となることを望んでいました。従って、私達は言葉で満たすのではなく空白を創り出すことによって、彼の演技の浄化を行わなくてはならなかったのです。二つの素晴らしい映画『冬の子供(映画祭上映題) L´Enfant de l´hiver』(オリヴィエ・アサイヤス)と 『』(『クリスマスに雪は降るの? Y aura-t-il de la neige a Noel?』(サンドリーヌ・ ベイセ)は、私にマリー・マーセロンとドミニクと一緒に仕事をしたいと思わせてくれました。この映画のなかで、マリーとドミニクは実際に一人の人物の二つの側面 、二つの顔を持つ母親を表現しています。一つは引っ込み思案で痛ましい悲哀に投げ込まれている母親、もう一つは権力にとらわれない女性です」

質問:この映画のラストはとても美しいですね。生を続けるための過去のシーンへの回帰となっています。

「喪の行為は新しい生活への道程なのです。ほぼ同じことが、マテューが誰もいない別 荘に戻ってくる冬の場面で起こります。そこには思い出があふれて、ほとんどが墓場です。しかし、そこで彼は家族を弔うことができるのです。マテューの物語は続いていきます。彼はなお愛の冬のなかにいるのです」

インタビュー:クレア・ヴァッセ Interviewd by Claire Vasse
(このインタビューは、プレスリリースから転載・翻訳したものです)

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