ブランドンのようなトランスジェンダーの男性にとって、日々の生活は過酷だ(*1)
。都会ならまだしも、田舎町でのそれは想像を絶する。専門医にかかればホルモン剤の投与や手術もできるが、長い忍耐と多額の出費が強いられる。刹那的な生活に溺れても、彼を「女性」だと決めつける社会の壁はあまりに厚い。自分にとっての真実を貫けば「嘘つき」呼ばわりされ、嘘でないと主張すれば堂々巡りの罠にはまっていく
。そのあたりの描写はとてもリアルだ。何より、トランスジェンダーや性同一性障害
といったテーマを真正面から描く、数少ない映画の一つであることは間違いない。
ただ残念なことに、この映画、クライマックスに向かってリアリティが急速に萎えて
いく。事件の描写に強引な脚色が見られるのも気になるが、特に違和感があるのは、
終盤、ブランドンが恋人の女性と愛を交わす場面だ。体を隠し続けていた彼が、ついに服を脱いで抱き合う。まるで、ブランドンが実はレズビアンだったと言っているかのようだ。彼が「女性であること」を受け入れられるなら、それまでの孤独な闘いは何だったのか? 「ありのままの体」が「ありのままの自分」ではないのが、性同一性障害だ。男性として生き、場合によっては体までを変えていこうとするその作業は
、本来の自分を取り戻す過程にほかならない。個人的に確認した限りでは、作家の虎井まさ衛氏を始め、この場面
に不満を感じている当事者は少なくないようだ。
このシーンは、どうも第三者の思い込みで描かれたような印象が強いが、監督のキンバリー・ピアースへのインタビュー記事を読んで、その思いを強くした。残念なことに、彼女は性同一性障害について全く理解できず、同性愛の延長として捉えているようだ(*2)。ピアースを含め多くの人が、なぜ「ブランドンは男性だ」という単純な
「事実」を受け入れられず、体を基準にした考え方しかできないのかと思うと、心が痛む。
ところで、この事件を扱った映画はほかにもある。事件の当事者に取材したドキュメンタリー『ブランドン・ティーナ・ストーリー』だ。ブランドンと周囲の人々の間で
起こった出来事を、驚くほど緻密に描き出している。この映画も、全面
的にブランド ンの立場に立った作品というわけではない。性同一性障害についての解説もなく、エモーショナルな演出も排除されているため、これだけを見てブランドンに共感する人は少ないだろう。
ただ、ブランドンの遺族、事件の渦中にあった恋人やその母、手を下した犯人たち、
死刑を宣告された犯人の親族、ブランドンとともに殺害された被害者の遺族、これらの人々が実際に登場し、カメラの前で自分達それぞれにとっての「真実」を語る姿は
、何よりも重く衝撃的だ。彼等の言葉の一つ一つ、どれをとっても心に響かないものはない。悲劇の全貌を知る上で、これ以上の資料はないだろう。『ボーイズ・ドント
・クライ』では十分に描かれていない警察の過失責任や、事件を裁く司法制度の矛盾も明らかにされる。ブランドンに冷たい視線を投げかけた人々の「彼らなりの理屈」も語られる。性同一性障害の当事者には重い内容かもしれないが、逆風の中でサバイ
バルしていくために何をなすべきか、何をしてはいけないのか、教えられる映画だ。
『ボーイズ・ドント・クライ』に感動した人にも、釈然としなかった人にも、一見をお薦めしたい。
*1 よくある「男の心を持った女性」「男装した女性」「本当は女性」といった表現
は何とかならないものだろうか。そういった言葉遣いこそピントはずれのイメージを
植え付ける原因のように思う。何より故人の思いに反しているのではないだろうか。
*2 "the ONION's a.v.Club"掲載のインタビュー記事
(http://avclub.theonion.com/avclub3539/avfeature3539.html)
ブランドンが、自分が同性愛者であることを否定するあまり、自分を男性と考えるようになったのではないかというピアースの推測は、まさに先入観に基づく偏見の一つ
だと思う。
(野宮亜紀) ※第9回映画祭上映作品『ブランドン・ティーナ・ストーリー』の翻訳を担当。
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