queer de pon
 
(2001/5/29更新)
「旅をする女たち〜誰と、どこへ行くのか」

ベーゼ・モア
 BAISE-MOI
2000年 フランス
監督・脚本:ヴィルジニー・デパント、コラリー・トラン・ティ
出演:ラファエラ・アンダーソン、カレン・バック
配給:コムストック

その過激な性描写ゆえに本国フランスで上映中止に追い込まれたという曰く付きの作品「ベーゼ・モア」。
マニュはポルノビデオで小金を稼いでいるが決まった職もなく、兄とふたり暮らし。ある日、友人のカルラと一緒にいるところをレイプされてしまう。それを知った兄は銃を取り出し、奴らをぶっ殺すと息巻く。自分の気持ちを置き去りにして、報復を真っ先に考える兄ともみ合ったすえ、マニュは兄を撃ち殺してしまった。
娼婦ナディーヌはルームメイトに生活のだらしなさから恋人のことまで口やかましくののしられ、逆上して彼女を絞め殺してしまった。 それぞれに殺人を犯したふたりは夜の街で「運命的な出会い」を果 たし、旅に出る。セックスと暴力とドラッグに彩られた、当てのない旅に。

殺人を犯したふたりにとって、これは逃避行である。しかし追うものの影は定かには見えず、彼女たちに追われるものの危機感や逼迫感はない。むしろ、戒めをほどかれた解放感の方が色濃く見える旅だ。とりわけマニュは、犯されるばかりの獲物に過ぎなかった生活を捨て、犯す側へ、殺す側へ変貌したあとのほうが生き生きとして美しい。中でも圧巻なのは、引っかけた男とセックスをしたあとの彼女のせりふだ。「ありがとう、よかったわ」というそれは、今までは男の口から発せられていたものだ。 道行きをともにするナディーヌも、それまでのような倦怠感はない。まるでスポーツを楽しむように、彼女たちはセックスをし、人を殺す。

何より印象的なのは、あどけなくすら見えるマニュの表情だ。彼女は自分の無力さを知っている。だからこそレイプされても無駄 な抵抗はせず、「殺されないだけまし」と言ってのける。しかし大切なものを(たとえば傷つけられた自分の尊厳を、またドラッグがらみでリンチに遭う幼なじみを)守ろうとするとき、彼女の心は熱を持つ。ほかには誰も、守ってくれないから。 その不思議に無垢な彼女を目の前にすれば、誰でも守ってやりたくなるだろう。いや、男たちは皆、彼女を汚すことしかしなかった。彼女を愛しているはずの兄でさえ、所有物のように扱うことしかしなかった。

旅を続けるに連れ、ますます無垢になっていくマニュ。檻に閉じこめられて毛艶を失っていたヤマネコが、自然の中で徐々に美しさを取り戻すように、彼女は本来の野生を解放する。 そのかたわらのナディーヌは……ナディーヌはマニュほどには暴力もセックスも望んでいなかったように見えた。彼女はマニュの無垢にとらわれてしまったのではないだろうか。「運命」という言葉を口にしたのはマニュの方だが、「偶然とは思えない」としか言えないナディーヌの方が、運命にとらわれてしまったように思う。
たとえばマニュにとって、それはナディーヌでなくてもよかったのではないか。けれどナディーヌにとっては、マニュでなければならなかった。マニュに出会わなければ、彼女は倦怠の日々にとらわれたまま、殺人者として裁きを受けたに違いない。 ある時マニュはうまく逃げ切れるはずがないと言い、「そのときがきたら殺して」とナディーヌに頼む。しかしナディーヌはそんなことはできないと断った。マニュは、傷を負った美しい獣。見捨てることも、ましてや自分の手に掛けることもできるはずがない。だからこそマニュは、ナディーヌと旅を続けたのだろう。確信していたわけではなく、ひたすら本能的に、守護者と認めていたのだ。


バタフライ・キス
 BUTTERFLY KISS
1995年 イギリス
監督:マイケル・ウィンターボトム
脚本:フランク・コトレル・ボイス
出演:アマンダ・ブラマー、サスキア・リーヴス
配給:シネカノン

「ベーゼ・モア」と同じく女性ふたりのロード・ムービー、そして「レズビアン映画」として話題になった「バタフライ・キス」。
北イングランド地方の田舎町で祖母の世話をしながら暮らしているミリアムは、ある日ジュディスという名の女を捜すユーニスと出会う。彼女の通 ってきたあとには死体が残されていく。ミリアムはユーニスを助けようと、それまでの生活を捨ててともに旅に出るが……。

ミリアムの独白という形で語られていくこの映画もまた、死屍累々のバイオレンスに満ちた作品である。 老いた祖母の面倒をみているミリアムは、その祖母に縛られ、冴えない生活を送っている。そこに現れたユーニスは、ミリアムの見知らぬ 世界を背負い、鮮烈な印象で彼女を誘惑する白馬の騎士だった。一見自由奔放に見えるユーニスだが、服を脱ぐと、そこには彼女自身が施した無惨なまでのいましめがあった。
ミリアムはどんな仕打ちにも耐えてひたすらユーニスに従う。ユーニスの愛を信じ、自分がユーニスによってそれまでの閉塞から解放されて自由になったように、ユーニスの束縛を解きたい、救いたいと望めばこそだった。ユーニスの孕む明確な狂気(=ジュディス)がミリアムに伝播する。ミリアムの狂気(=ユーニスへの愛情)はユーニスを守護する力となる。
時折挿入されるミリアムの独白のシーンから、観客は彼女が警察に捕らえられていること、すなわちふたりの旅がすでに終わっていることを知っている。それも悲劇的な終わり方をしたに違いないという予感を、ほぼ初めから与えられた上で彼女たちの旅を見守らなければならないのだ。その予感は正しいのかどうか。 「ベーゼ・モア」、そしてこのあとにあげる「テルマ&ルイーズ」に共通 しているのは、旅をするふたりが警察から逃れようとしている点、すなわち「捕まればゲームオーバー」というルールがあることだが、「バタフライ・キス」にはそんなルールはない。そして唯一彼女たちだけが旅の「目的地」に到着するのだ。ゲームオーバーではなく、クリア。それはハッピーエンドといえないこともない。


テルマ&ルイーズ 
THELMA & LOUISE
1991年 アメリカ
監督:リドリー・スコット
脚本:カーリー・クォーリ
出演:スーザン・サランドン、ジーナ・デイビス

配給:松竹富士

女ふたりの逃避行といえば、「テルマ&ルイーズ」が定番。
旧弊な家父長主義者の夫から、ほんのひととき逃れるだけのつもりだったテルマは、家庭に閉じこめられた彼女に同情し、楽しみを与えてやろうとするルイーズとともに数日間の小旅行に出る。出発までは夫の顔色をうかがい、言い出すことさえできなかったテルマだったが、いざ車が走り出すとルイーズ以上にはしゃぎ出す。途中に寄ったクラブでダンスを踊った相手にレイプされそうになったテルマをルイーズが助けるが、それはルイーズの過去の記憶と重なり、彼女は半ば衝動的に男を殺してしまった。 ふたりはメキシコを目指して逃げるが、道々出会う不運に引きずられ、犯罪を重ねることになる。

旅に出る前のテルマは、まったく冴えない人妻だった。パフスリーブのブラウスとギャザースカートも保守性の現れでしかないし、そもそも旅などしたことのない彼女の荷物は不格好なほどにかさが多い。 それに引き替えルイーズは、カラフルなスカーフに髪を包み、すっきりとしたパンツルックにサングラスといった出で立ちで、青いオープンカーに乗って颯爽と現れる。
ところが旅が始まるやいなや、過剰なほどに自分を解放するテルマに、ルイーズの方がたじろぐ始末。ダンスの汗に湿るころには、パフスリーブもギャザースカートも保守性とは無縁なほどに乱れ、テルマの表情も別 人のように輝き出す。
彼女を真に解放したのは、旅の途中に出会ったヒッチハイカー、JDだった(演じるのはブラッド・ピット。自称大学生だが、しゃべり方がもろチンピラでテルマ以外は誰も信じない)。彼と過ごした一夜、テルマは生まれて初めてセックスの快楽を知る。
そのJDに逃走資金を奪われてしまうのだが、テルマはただでは転ばない。寝物語にJDに聞かされたのとそっくり同じ手口で強盗を働き、金を手に入れるのだ。それは自分の中にあるとは思ってもみなかった力との出会いでもあった。
もうテルマがルイーズに憧れることはない。ルイーズがテルマをかばうこともない。ふたりは自立した女性として対等に向き合い、「同志」としての互いを再発見する。それはすなわち、旅の終わりでもあるのだが。 ワタシにとってさきの2本とこの作品が決定的に違うのは、「永遠に続く旅」を夢想すること。旅をはじめた彼女たちに閉塞感はもはやなく、積極的に「生きること」を望んでいるから。 だからこそ、これはおとぎ話に過ぎないのだが。

テルマとルイーズの時代は、彼女たちを縛り付けるのは男たちだけだった。そしてそれは、逃れようと思えばいつでも逃れられるものだったのだ。
しかし、もはやマニュとナディーヌには逃げ場所は与えられていない。目的を信じようとすれば、ユーニスとミリアムのように狂気を身にまとうしかない。そうはできないからこそ、マニュとナディーヌは何のあてもなく、ただ刹那の享楽に溺れるのだ。夢などない。望みなどない。
この十年、世界からは徐々に希望がそぎ取られていっているのかもしれない。ワタシたちは夢を見ているか? 行き着くべき目的地はどこかにあるのだろうか?

ベーゼ・モア オフィシャルホームぺージ
http://www.baise-moi-jp.com
テルマ&ルイーズ IMDB DATA
http://us.imdb.com/Title?0112604
バタフライ・キス IMDB DATA
http://us.imdb.com/Title?0103074

 
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