queer de pon
 
(2001/7/1更新)
「女は女である 〜ヌーヴェル・ヴァーグの女性像 」

ヌーヴェル・ヴァーグといえば、従来の映画文法を覆した云々という点で語られる ことが多いが、それ以上に女優たちを魅力的に見せ、輝かせた功績もまた大きいので はないだろうか。  ジャンヌ・モロー、アンナ・カリーナ、ジーン・セバーグ、アンヌ・ヴィアゼムス キー、ピュル・オジェ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ブリジッド・バルドー、ステファー ヌ・オードラン、デルフィーヌ・セイリーグ・・・。  ジャン・ポール・ベルモンドを始め何人かの例外を除いては、不思議と男優の印象 は薄いが、女優に関しては思い出しただけでも鮮烈なイメージが脳裏を横切る。今回 は、そんなヌーヴェル・ヴァーグの女優たちに焦点を当てて、ヌーヴェル・ヴァーグ 作品群の中でもちょっと珍しいクィアテイストな「女鹿」と、女たちのファンタジッ クな物語「セリーヌとジュリーは舟で行く」の2本を取り上げました。


「女鹿」 
LES BICHES (1968)
監督:クロード・シャブロル
出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、ステファーヌ・オードラン
※ビデオ廃盤

映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」を拠点に新しい映画作りを目指し、フランソワ・ トリュフォ−やジャン=リュック・ゴダ−ルとともにヌ−ヴェル・ヴァ−グの先陣を 切り、「フランスのヒッチコック」といわれる「サスペンスの巨匠」、クロード・シ ャブロルによる作品。  

父の残した莫大な遺産を相続し、自由気ままに暮らしている社交界の名士、フレデ リック。そんな彼女が、パリの歩道で「牝鹿」の絵を描いて生計を立てているホワイと出会うことで物語は始まる。この貧しいストリート・アーティストを一目で気に入ったフレデリック。彼女は、ホワイを誘惑し、サントロペにある自分の家へ連れて行 く。このサントロペという町で、ホワイはフレデリックのいわば「被保護者」として 一緒に暮らし始めることとなる。  
さて、物語は、ある夜、フレデリックが主催するパーティに建築家ポールが参加することで急転します。一目で惹かれ合うホワイとポール。そして、それを面 白がると 同時に嫉妬するフレデリック。この恋は、ホワイにとっては初めての経験だったのだが、ポールはフレデリックとも関係を持ってしまい、結果 的にホワイを裏切ってしま う。一方、始めは嫉妬心からポールを誘惑したフレデリックだったが、すぐに彼を本気で愛してしまったことに気付いていく。  
フレデリック−ホワイ−ポールの間にできた奇妙な三角関係。にも関わらず、これ までどうり三人一緒に仲良く暮らしたいと望むフレデリックとホワイ。しかし事はそれ程単純ではなかった。三人の共同生活は彼/女らの力ではとても処理できないほどの感情を巻き込んでしまっていたからだ。こうした状況にようやく終止符が打たれよ うとした時、三人の間に生じた複雑で絡み合う「運命」は、ぞっとするような結末へと導かれていく。  

このように、『女鹿』は、フレデリックとホワイの「なぞめいた」、そして「あいまいな」愛情(愛着)/欲望関係を軸に展開しています。ただ、個人的には、この作品を「レズビアン」映画として位 置づけることに戸惑いを感じます。確かに、直接的ではないにせよ、フレデリックとホワイが互いに誘惑し合う場面 が作品全体にちりば められており、二人の間には、いわゆる「レズビアン」っぽい関係が成立しているかのように見えます。しかし、その他さまざまな場面 を通して見えてくるのは、女性同 士の友情映画で描かれるような友人関係のようでもあり、女子校ものに出てくる「先輩−後輩」の関係のようでもあり、そしてよくある恋愛ものに出てくる恋敵の関係のようでもある、という二人の複雑な関係なのです。このように、多様で、時として相矛盾するような描き方をすることで、フレデリックとホワイの関係は、あくまで「なぞめいた」、「あいまいな」ものとして設定されています。  
重要なのは、この「なぞめいた」、「あいまいな」二人の女性の関係こそが、この作品のサスペンスを成立させている点です。物語の後半では、フレデリックとポールのいわば「正式な」恋人関係を、ホワイが絶えず揺さ振っていくことで、三人の関係に微妙な緊張が蓄積されていきます。しかし、ホワイが、フレデリックとポールのど ちらに嫉妬し、不可解な行動をとっているのかは不明確なままにされており、まさにこのことが、この作品のサスペンス性を維持しているように思えます。  
つまり、フレデリックとホワイの「なぞめいた」、「あいまいな」関係こそが、ホ ワイの意図を、観客の側に特定させないように作用しているのです。二人が互いに誘惑し合う場面 も、そのような二人の関係を設定するために、そして結果的に物語のサ スペンス性を支える「効果」の一つであるにすぎないという気がします。こうした意味において、この作品を「レズビアン」映画として位 置づけることに対して、個人的には抵抗を感じます。  
しかし、緩やかで、静かで、単調でありながら、同時ににぎやかさも兼ね備えてい るというシャブロルによる物語様式の精密さと、色褪せていくような淡い映像はなか なかです。ただ、この作品では、ユーモアや皮肉といった面で、シャブロルの他の作 品が持っているようなパンチ力が感じられない点は残念です。また、フレデリックを演じたステファーヌ・オードランはこの作品で、第18回(1986年)のベルリン 国際映画祭で主演女優賞を受賞しています。

(Y.I.)
LOUDホームページ http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/6507/index.html



「セリーヌとジュリーは舟で行く」
CELINE ET JULIE VONT EN BATEAU (1974)
監督:ジャック・リヴェット
出演:ジュリエット・ベルト、ドミニク・ラブリエ、ビュル・オジェ
※ビデオ発売 日本コロムビア


フランスでは1974年に公開されたこの作品を、私を含む多くの日本人が90年代に入ってから観ているのではないだろうか。監督のジャック・リヴェットが91年 の「美しき諍い女」で世界的評価を得たことによって、日本にもようやく紹介されたこの作品を初めて観た時、とにかく夢中になって、立て続けに三回も繰り返して観た ことを鮮明に覚えている。その時はどこがどう面白いのか、など考えようともしていなかったのだが、今回、これを書くに当たって再度ビデオを観て、うなってしまっ た。たぶんこの作品を少なくとも「好きだ」という人が百人集まったとして、どこが 面白いかと尋ねたら、百通りの答えが返ってくるだろう。優れた童話が多くの人々の 心の奥底に眠っている想像力を多方面から刺激するのと同様に、「セリジュリ」(タイトルが長いので略します)にも、数多くの示唆に富んだ仕掛けが施されている。そのどこに反応するかは人ぞれぞれだろう。また何度も観ている内に、別 の仕掛けに気 付いて新たなイマジネーションを掻き立てられたりする事もある。まさに万華鏡。そこがこの作品の最大の魅力だと思う。  
とはいえ、こんな表現ではこの作品がどんなものなのか、予想もつかないだろう。 そこでここでは、私が最も面白いと感じたところをお話ししたいと思う。  

これは「少女殺しを阻止する二人の女」の物語だ。「少女殺し」などというといか にも剣呑であるが、ここでのそれはかなり比喩的なものである。たとえばユング派の心理分析家たちは、神話やおとぎ話の中の普遍的な心理を象徴する人物や事象を、 アーキタイプとして取り上げ、カウンセリングに用いるのだが(「老賢者」「グレー トマザー」「トリックスター」「少年」といった人物や「父親殺し」「母親殺し」といった行為を元型として、クライアントの心理状況に重ね合わせることで、彼等の自己理解を促すのだ)、リヴェットが描き出そうとした「少女」及び「少女殺し」も、 それに近いものだと考えられる。  
古い館で日々、繰り広げられる男女の愛憎劇。一人の男を巡って、二人の女が暗闘するという、ありがちな、お定まりの、三角関係である。少女はそれに巻き込まれ、 犠牲になっている。そしてこの愛憎劇を繰り広げているのは幽霊だ。幽霊とはつま り、人間の想念や意識の残像だろう。  

非常に面白いのは、この愛憎劇を演じている女優の一人は、明らかにカトリーヌ・ ドヌーヴをパロっていると思われる所。ドヌーヴといえばヌーヴェル・ヴァーグ全盛 期に活躍し、一世を風靡した存在である。また男一人に女二人とか、女一人に男二人の三角関係というのも、ヌーヴェル・ヴァーグを筆頭にフランス映画が得意としてき たテーマの一つではなかろうか。思えば1960年代から70年代にかけて、ヌーヴェ ル・ヴァーグの旗手と呼ばれた男達は、競って美しく個性的な女優を起用して自分たちの夢の世界を表現していた。現実の世界でも彼女たちと恋に落ちたり、三角関係を演じたりしながら・・・。かつて10代だった私は、彼等の作品の奇抜でユニークな 映像表現に惹かれる一方で、どこか本質的な違和感を感じていたのだが、「セリジュリ」を観ていて、それが何であったかに気付かされたのである。思えばトリュフォーやルイ・マルが描くファムファタルも、あるいはイタリアの巨匠フェリーニの描き続 けた巨大な女がイメージさせる「グレートマザー」も、彼等の憧れやコンプレックス を投影するものとして表現されていた。つまり女達は、一人の人格を持った人間では なく、男達が憧れたり、畏れたりする「女性像」を一生懸命に演じているために、女である私から見ると、どこか嘘っぽく見えていたのだろう。  

そして何はともあれ、この愛憎劇に巻き込まれている「少女」は、否応なくこの嘘っぽい女性像を、その意識に刷り込んでいき、放っておけば自らも無意識のうちにその女性像を演じるようになるに違いない。そうなる前に救わなければ、とセリジュリは立ち上がる。・・・ところでギリシャ神話に登場する「少女」は、大地の女神デメテルの娘コレーとして描かれている。コレーは冥界の神ハデスによって誘拐され、 紆余曲折を経て冥界の女王ペルセフォネへと変容していくのである。セリジュリに救われ、嘘っぽい女性像から解放されたこの少女も、いつか立派な魔法使いとなること だろう。セリジュリがへんてこな魔術師と魔術マニアの図書館員のコンビという設定 も、まことにシンボリックである。  
ラスト、蝋人形と化した男一人と女二人が、舟で流されていくのを同じく舟に乗るセリジュリと少女が見送るシーン。それは形骸化した男女関係に別 れを告げる女達の姿ではなかろうか。    

ところでこれは余談だが、幽霊が繰り返し演じている悲劇に、生身の人間が関わっていって、その悲劇に終止符を打つ・・・というこの作品のプロットは、数年前私が読みふけっていたヤオイ小説、ごとうしのぶさんの「タクミクンシリーズ」の中の一 作品(タイトルを忘れちゃいました)にとてもよく似ている。もしかしたらごとうさ んは「セリジュリ」にインスピレーションを受けたのではないかと睨んでいるのだが、興味のある方はぜひルビー文庫のこのシリーズを読んで下さい。

(ざくろ)

 
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