「趣味の問題」。なんていい邦題でしょう。えてして「趣味の問題」とは、ごく個人的な主観であり、その良し悪しはその人自身にしか理解できないものだったりします。が、もし「趣味の問題だからね」の一言で、他人の人生を弄ぶことができたら、その背徳的な禁忌の歓びはいかなものか。この映画では、一個人の趣味の問題によって、翻弄させる者とさせられる者、つまり「加虐者」と「被虐者」の立場が描かれています。
まず、着眼点として面白いのは「オヤジに翻弄させられる美青年」を主軸にしたこと。「ベニスに死す」の昔から、「美少年に恋するオヤジ」っていうのが常套手段ですが、この映画の場合はその逆。美貌の青年ニコラが、初老(と言うと語弊があるが)の実業家フレデリックに陥落する。ってわけです。もちろん彼は、その財力にモノを言わせてるんですが、ワーカホリックの虚無感漂う、ただのオヤジであることには変わりない。それが、いかに美青年を陥落させていくのか。いかに主従の関係を調教していくのか。その辺りのお手並みは実に鮮やかです。
そして、この映画は、もう一歩踏み込んだところで「加虐者の自己愛」にまで言及しています。実はこれこそが、(遺憾ながら)この映画をゲイ・フィルム足らしめていないポイント。確かに、最初はゲイテイスト溢れる作りになっているんですが、途中からそれをスッとカワすような展開になります。フレデリックが真に求めていたものはニコラ個人ではなく、ニコラにコピー・ペーストした自分自身。身長。体重。食の好み。服の趣味。彼はニコラの中にドッペル・ゲンガーを見ていたのです。その事実に気付いたニコラ。この瞬間、フレデリックに巣食っていた狂気は、まるでリレーのごとく、ニコラ自身の手にバトンタッチされるのです。話の途中でわりと結末が予測できてしまうんですが、要は結末云々ではなく、在り来たりな言葉ではありますが、テーマは人間の心理にあります。加虐愛と被虐愛の心理。さらに加虐愛が自己愛として結実する心理。自分の「趣味」に他人を巻き込むことは何を意味し、最後にどんな末路が用意されているのか。そういう意味では、小学校の理科の実験、フラスコの中の科学反応を見ている感じがします。まさにフレデリックは、ニコラを媒体として「自己愛の実験」をしていたのではないでしょうか。
それにしてもゲイの目から観て、これはまさに「サディスティックな映画」。だって、せっかく期待した、ジャン=ピエール・ロリ演ずるところのニコラのヌレ場が拝めないなんて、これほどの「おあずけ状態」もないと思いませんか? 監督のベルナール・ラップ。相当のサディストと見た。
(tee)
tug the tee
(teeさんのホームページ) http://www2.odn.ne.jp/~cbq54710/
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