queer de pon
  趣味の問題  une affaire de gout (1999)

監督・脚本:ベルナール・ラップ
脚本:ジル・トラン
出演:ベルナール・ジロドー、ジャン=ピエール・ロリ、フロランス・トマサン、シャルル・ベルリング、ジャン=ピエール・レオー

有名企業のオーナー社長で大富豪のフレデリックは、レストランで給仕をしていた若い男ニコラを、自分専門の味見役として高給で雇い入れるが…。
ゲイ映画ではありませんが、ゲイテイストが濃厚に漂うミステリアスな心理ドラマです。監督は「私家版」(1997)が注目されたベルナール・ラップ。ちなみにラップと共に脚本を執筆したジル・トランは、「野生の葦」(1994)や「夜の子供たち」(1996)「ドライ・クリーニング」(1997)など、同性愛を扱った作品の脚本家としても知られています。

日本配給:クレスト・インターナショナル
趣味の問題
オフィシャル・ホームページ
http://www.crest-inter.co.jp/syumi/index.html


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「趣味の問題」。なんていい邦題でしょう。えてして「趣味の問題」とは、ごく個人的な主観であり、その良し悪しはその人自身にしか理解できないものだったりします。が、もし「趣味の問題だからね」の一言で、他人の人生を弄ぶことができたら、その背徳的な禁忌の歓びはいかなものか。この映画では、一個人の趣味の問題によって、翻弄させる者とさせられる者、つまり「加虐者」と「被虐者」の立場が描かれています。

まず、着眼点として面白いのは「オヤジに翻弄させられる美青年」を主軸にしたこと。「ベニスに死す」の昔から、「美少年に恋するオヤジ」っていうのが常套手段ですが、この映画の場合はその逆。美貌の青年ニコラが、初老(と言うと語弊があるが)の実業家フレデリックに陥落する。ってわけです。もちろん彼は、その財力にモノを言わせてるんですが、ワーカホリックの虚無感漂う、ただのオヤジであることには変わりない。それが、いかに美青年を陥落させていくのか。いかに主従の関係を調教していくのか。その辺りのお手並みは実に鮮やかです。

そして、この映画は、もう一歩踏み込んだところで「加虐者の自己愛」にまで言及しています。実はこれこそが、(遺憾ながら)この映画をゲイ・フィルム足らしめていないポイント。確かに、最初はゲイテイスト溢れる作りになっているんですが、途中からそれをスッとカワすような展開になります。フレデリックが真に求めていたものはニコラ個人ではなく、ニコラにコピー・ペーストした自分自身。身長。体重。食の好み。服の趣味。彼はニコラの中にドッペル・ゲンガーを見ていたのです。その事実に気付いたニコラ。この瞬間、フレデリックに巣食っていた狂気は、まるでリレーのごとく、ニコラ自身の手にバトンタッチされるのです。話の途中でわりと結末が予測できてしまうんですが、要は結末云々ではなく、在り来たりな言葉ではありますが、テーマは人間の心理にあります。加虐愛と被虐愛の心理。さらに加虐愛が自己愛として結実する心理。自分の「趣味」に他人を巻き込むことは何を意味し、最後にどんな末路が用意されているのか。そういう意味では、小学校の理科の実験、フラスコの中の科学反応を見ている感じがします。まさにフレデリックは、ニコラを媒体として「自己愛の実験」をしていたのではないでしょうか。

それにしてもゲイの目から観て、これはまさに「サディスティックな映画」。だって、せっかく期待した、ジャン=ピエール・ロリ演ずるところのニコラのヌレ場が拝めないなんて、これほどの「おあずけ状態」もないと思いませんか? 監督のベルナール・ラップ。相当のサディストと見た。

(tee)
tug the tee (teeさんのホームページ) http://www2.odn.ne.jp/~cbq54710/


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※ このレビューには結末が書かれています。

たまに、「もう一人の自分がいれば...」と思うことがある。でも、それはあくまで日常生活上で便利だからであって、ナルシシズムに由来するものではない(と思うが...)。しかし、本作の主人公は違う。自分と感性が近い青年を見いだし、もう一人の自分を作り出そうとする。当初存在したのは、紛れもなく自己愛であり、青年の中に存在する自分の投影を、主人公は追い求めていたのである。だが、他人は所詮別 の自己を持つ個であり、決して同一となりえない。そのズレに気づくことで主人公の思いは変質し、共通 性を持ちながらも本質では異なっている青年に対して、主人公は愛憎という相反する気持ちを抱き、それに苦しむ。自己に向けていたベクトルを他に解放したときに、そこにあるのは愛なのか、自己崩壊なのかはわからない。しかし、最後の出来事を目の前にした時、主人公の顔に浮かぶ微笑の意味をどうしても知りたくなる。

強いて言えば、精神的なサドとマゾの疑似関係(少なくとも、単純に恋愛や友情とは括りがたい)にあると思える二人。しかし、主人公が意識的にサディスティックに振る舞っているに対して、青年は無意識にそのマゾヒスティックさを露呈している。「恋愛はゲーム」というが、決して愛した方が敗者で愛された方が勝者というわけではない。勝負を決めるのは、「どちらがより求めたか」なのである。むろん、そこに介在する自覚は大きな意味をなしてくる。ただ盲信的に同一化を努力してきた青年が支配と独占を求めた時、その敗北は予め定まれる。そして、青年によって殺されることは、主人公が青年を手にしたことにほかならない。そこには、他は存在しなく、ただ主人公のエゴイズム的な満足のみが存在し、最後の微笑は勝利の確認と言えよう。 そして、残された青年は何一つ手に入れることなく、否、満たされぬ まま、何もかもを失ってしまったその悲しさだけが余韻として残る。

(ScH)


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「人間は、必ずしも楽な道、楽な環境を選択しない」って、俺の先生が言ってた。もう一年くらい前の、寒い冬の研究室で。最初、先生が何を言ってんだかさっぱり分からなかったけど、ふとした瞬間、俺は心の中にひっかかったこの言葉を思い出してた。

ところで「趣味の問題」。ここに出てくる二人の男は、いわゆるストレートで、ゲイとかホモとか、そんなんじゃない(と、彼らは言う)。でも、同じ感覚、同じ触覚を持とうと、彼らは躍起になっていく。そして、同じことを感じる体を作り上げていった。まあ、映画を見ると分かるけど、金持ちのやることっちゃーやりそうなことだけどね。金もある、権力ももった。満足しきった生活に足りないものは? そう、究極的な禁欲生活だ! 目の前にいい男をちらつかせ、指一本触れようとしない。最終的に、一緒に足の骨まで折るんだけど、そのとき、「俺達って、愛し合ってんだよね」みたいなことを言う。でも、結局セックスはないんだよね、二人の間には。結末は・・・これぞ究極の快楽なのか? 

自称ストレート男と自称ストレート男の間に存在する、友情というものの危うさ。彼らはお互い好きになってたのに、遠回り遠回りをしていったんだと思う。すぐにセックスして、すぐにつき合うとかいうんじゃなくて、自ら茨の道を進んでいったって感じ。そしてその好きになっていく過程を楽しんだっていう感じだろうか。俺は思うんだけど、なんでセックスがなかったんだろう? 永遠のプラトニックラブ。頭では分かっていても、これを実際に行動に移してみるとなると・・・。きっと俺も狂っちゃうだろう。俺も最近、ノンケを好きになって、その「友情」ってものの危うさみたいなもんを、身にしみて感じたんだけど。この映画の結末みたいにはならないように・・・祈る! (合掌)

(亮)


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(2001/1/29更新)
 
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