過去の映画祭を振り返る(第1回から第5回まで)
過去映画祭上映作品リスト
(2001/7/15)

第1回映画祭の開催  

中野サンプラザの研修室に映写機を持ち込んで始まった、レズビアン&ゲイ映画祭 (渋谷のパルコで行われた映画祭とは別に開催されました)。もちろん、全てが手作 りで、何もわからないまま手探り。カナダの映画作家ポ−ル・リ−にゲスト・キュレ −タとして来てもらい、作品の選定や手配など、手取り足取り教えてもらいました。  
主催はILGA日本という団体の中のゲイ・ア−ト・プロジェクト。代表者は当時ゲイ雑誌「アドン」の編集出版していた南定四郎さん。アクティビストとして活発な活動を展開していたこともあり、アクティビストのグル−プ「アカ−」から、当時彼らが争っていた「東京都府中青年の家」裁判についての報告をしてもらったりなど、映画祭自体の内容も政治的色彩 が強い映画祭でした。上映作品には第2回ゲイ・ゲイムスやワシントンDCのプライマ−チなどのドキュメンタリ−もありました。

第2回からは会場を吉祥寺のバウスシアタ−に移して本格的な映画上映に。規模も3 日間から8日間になりました。エイズ問題やレズビアンの結婚、スト−ンウオ−ル事件(1969年)以前のゲイ・ム−ブメントなどのテ−マを扱った長短編を上映。また、 同じ会場で、現在でもゲイの劇団として大きな活躍を続けている「フライングステ−ジ」の初期の公演もプログラムに。当時、日本のゲイフィルムとして大きな話題となっ た「おこげ」や、デヴィッド・リ−ヴィット原作を映画にした「失われたクレ−ンの 叫び」なども大好評。監督を呼んでのティ−チインも盛況でした。  
また、大木裕之監督の「色目」や中田統一監督の「ミノル・アンド・ミ−」や、「ウォ−タ−メロン・ウ−マン」(1998年、作品。第7回映画祭で上映)の監督シェリル・デュニエの短編など、現在活躍中の監督の初期作品をたくさん紹介していたの です。

第3回の頃になると、世界のフィルムメ−カ−とのコンタクトも増えて、上映作品の質や幅も向上。ただ、「日本作品も見たい」という声に応え、その年北海道のテレビ局が撮ったゲイの高校生についての短編やNHK制作の、コマ−シャルをゲイ向けにパロディしたプログラム。そして橋口亮輔監督がぴあフィルム・フェスティバルで大賞を受賞した「夕べの秘密」などを上映しました。  
ト−クセッションもいくつか。「エイズとともに生きる」、「レズビアン・セミナ −:欲しいものは自分で作ろう」、「ゲイ・セミナ−:東京のゲイライフ」などのテ−マについて熱い議論が交わされました。また、当映画祭で初めて、日本劇場公開に先立ちプレミア上映(ドイツの長編「プリンス・イン・ヘル」、配給:スタンス・カンパニ−)も行われました。  
この年から、映画祭はゲイア−トプロジェクトから独立し、映画祭運営委員会の方式に転換。広報や宣伝にも力を入れ、観客数も約2500名に達し、マスコミから取材の申し込みも来るようになりました。内容も政治的というよりは「面 白い映画を!」上映し、映画祭自体、より開かれたフェスティバルの色彩 を帯びるようになったのです。

第4回は吉祥寺での最後の映画祭。この年は日本のレズビアン&ゲイ作品コンテス トの第1回目を開催。16本の応募作品の中から5本がノミネ−トされ、大きなスクリ−ンで上映。立ち見が出るほどの盛況で、やはり日本作品にはたくさんの人が大きな関 心を夜出ているのだということあらためて実感。レインボ−フラッグを大きく翻しながら行進するバトントワラ−ズを先頭に、審査員や受賞者が入場。審査員に大塚孝志さん、鎌中瞳さん、斉藤綾子さん、とちぎあきらさんなどをお迎えして、司会はキャロル久末さん。賞金10万円を手にしたグランプリ受賞者は「ケチャップマン」の愛場大介さん。最後はレズビアンのシンガーソングライタ−、チュウちゃんの歌声に乗っ て、幕を閉じたのでした。

会場を青山スパイラルホールに移した第5回
さて、レズビアン&ゲイ映画祭が大きな転換を迫られた第5回目。バウスシアターが大手の映画系列に入ったことによってスケジュ−ル的に当映画祭の開催が難しくなっ たため、他の会場を探すことになりました。観客数の増大を視野に入れ、バウスシアタ−よりも大きく、便利な場所は天…。企画書持って足を棒にしていろいろ探したあ げく、最後に理解を示してくれたのが青山のスパイラルホ−ル。規模的にも地の利の面 でも、そして何と言っても、そのプレステ−ジは都内で随一。  
変化は場所だけではありませんでした。

まず、字幕革命。  
吉祥寺時代は、プリントに字幕を焼き付けるどころか、何とスライドで投影していました。翻訳をスライドフィルムに焼いて、それを手でマウント。長編1本で1000枚を越える作品もあり、それをいちいち、あの丸いトレ−に差し込む。それが何作品もあったのです。スライドの詰め替え作業に一日かかりっきりのスタッフもいて、それ はまさに地獄のようでした。スライドはコマを送るのに時間のロスがあり、操作も台詞のスピ−ドについていくのは至難の業。タイミングがずれたりするのは当然。時々逆さになっていたり、順番がちがっていたり。スライドが熱をもってくると動作部分にスライドの枠がひっかかって、詰まってしまい、上映もやむなく一時中断ってことも何度もありました。  
その悪夢から開放されたのが、第5回。映画祭にもようやくコンピュ−タ時代到来。 コンピュ−タに入力した字幕を直接ビデオプロジェクタからスクリ−ンに投影できる ようになりました。何千枚というスライドを作ったり詰めたりする手間がなくなって、 オペレ−ションもマニュアルではあるものの、時間的なロスも小さくなって、見やすくなりました(北米や英語が通 じる北ヨ−ロッパの映画祭はほとんど字幕の心配がいらない。それが、とてもとても、羨ましい)。

35ミリ
それと前後して、上映作品に35ミリのフィルム作品が増えてきました。つまり、ゲ イ・レズビアンのフィルムメ−キングの予算が潤沢になって、規模の大きい作品が作 られるようになったということ。それまでは、長編でも16ミリがほとんど、作品の芸術的なレベルは別 にして、お金のかかった映画が多く出てきた。“ゲイマネ−”という言葉を聞くようになったのもその頃でしたよね。  
第5回の目玉は「ウィッグ・ストック」でした。作品の規模が大きくなると、やはり相手にする配給会社も大手になってくる。フィルムのレンタル料や輸送料も高くなり、手続きも煩雑に。「映画産業ってこんなふうになってるのか」という驚きにどきどきわくわく。

スポンサ− 
さすがに規模が大きくなってくると、自前の資金だけでは追いつかない。会場がスパイラルになったこともあって、映画祭のステ−タスもぐんとアップ。民間企業のスポンサ−もつくようになりました。もちろん、吉祥寺時代からずっと応援してくださっている2丁目のバ−やゲイ関連の書籍の出版社、コミュニティ諸団体、ゲイ雑誌諸誌に加え、アブソリュ−ト・ウォッカ(キリンシ−グラム)やユナイテッド・アロ−ズ、 後にはAOLジャパンや、タワ−レコ−ドといった企業からも協賛をいただけるように なりました。  
同時に、ブリティッシュ・カウンシルやスペイン、カナダの大使館の後援、協力、 協賛、そして第6回では、東京都歴史文化財団からの助成もいただきました。

関西での映画祭開催 
第5回目からは関西の有志が集まってQFFを設立、京都、そして大阪でも映画祭を開催できるようになりました。東京だけでなく日本全国の人々に見て欲しいという悲願の第1歩。大きな飛躍です。

5000名!  
スパイラルに移って観客動員数も増大。第5回目は東京だけで3700名。関西も合わ せて5000名を達成。その後も増え続けており、今では東京だけで6000名。関西も 約2000名をコンスタントに動員。今年の10回目には残念ながら関西での開催はありま せんが、1日平均1000名の動員は目を見張るものがあります。なにしろ、スパイラルに入場を待つ観客の長い列ができるようになったんですから。マスコミの注目度もあがり、映画祭はひろくその存在を知られるようになりました。

(続く)

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