インタヴュー

「愛の破片」

ヴェルナー・シュレーター監督
インタヴュー


インタヴュアー:水原文人


映画、演劇、オペラの3つに区別はあるものなんでしょうか?それともあなたの中で、一つの芸術として統合されているとお考えですか?

 すべてわたしの道程にあったことだね。私は映画にしても、演劇にしても、なんの教育も受けていない。それで、ある日、私の出会ったある人物が、何かをやるようにと私を追い込んだのだ。そこで私は映画を作り始めた。8ミリのカメラでね(当時はダブル8だ!)。それで、ミュンヘンの小さな映画館で上映されるようになり、68年には16ミリの映画を始めた。翌年に、最初の長編「アイパ・カタパ」がマンハイム映画祭でジョゼフ・フォン・スタンバーグ賞を取り、まあどんどん撮り続けたわけだ。それで結果として、映画を作る手段が与えられた。最初はドイツの第2チャンネル、ZDFのとても興味深い番組枠のためだった。当 時はテレビだって、もちろん今よりもずっと興味深かったんだよ。

 まぁ、それで71年に、オスカー・ワイルドの「サロメ」をレバノンのベルベック遺跡(当時はまだあった。今では爆撃ですっかり破壊されてしまった)で撮影し、これがテレビで放映された。それでオペラの大演出家のジャン・ピエール・ボネル、今日でもドイツで最も優れた舞台演出家のペーター・ツァイデック、それにハンブルグ劇場の支配人エヴァン・ハーグル、この3人がそろって私に電話をしてきて、あなたの映画を見た、演劇の演出を始めるように、と説得してきた。私に創作は、こうして有機的な結び付きをもって始まったもので、私にとっての違いは、創作のテクニックの相違しか存在しない。人間の表現としての違いはない。ただテクニックが違うだけなんだ。

オペラについての映画を作ろうというインスピレーションはいつ頃から?

 私にとってこれはオペラについての映画じゃないよ。どんな芸術家であろうと、自分の仕事、自分の技術、自分の芸術を通して自分の人生を表現しようとする人々についての映画だ。もちろん、オペラの歌声、いやオペラに限らず人間の声というものは、私にとって、幼いころ初めてマリア・カラスの歌を聴いて以来、あまりに重要なものになっている。私は14歳で、ただその響きに圧倒されて人生が変わった。

 この映画のアイディアは、まだマリア・カラスが生きていた頃、1975年か76年ごろまでにさかのぼる。1977年にカラスが亡くなり、彼女に参加するよう頼むわけにはいかなくなった。その後ずっとアニタ・チェルケッティを探していたんだ。1964年に初めて彼女の声を聴いて以来、常に彼女を探していたと言ってもいい。その年にラジオで彼女の歌を耳にしたときには、あまりに圧倒されてイタリア中を回って彼女の足跡を求めたのだが、手がかりは一切見つからなかった。すでにその4年前に引退してしまっており、彼女の家族はその存在そのものを、この地上から消してしまおうとしたのだと思う。

 映画のなかでは神経症のチック症状というふうに和らげて言っているが、実際にはもっと深刻な病気でね、ずいぶん長い間ひどく不快な状態で過ごしたのではないかと思う。それでレコード・メーカーでも彼女の希望で、彼女のレコードを全部店頭から引き上げさせたのだ。だが私はアメリカやフランス、イギリスなどで探して、最後にはレコードを全部見つけた。そして、ずっと彼女のことを捜し続けたんだ・・・30年間ね。そして、突然95年に彼女を見つけたんだ。出会いは本当に感動的だった。その感情は映画の中で再現できたと思う。状況は違ったが、本当に同じ感動だった。そこでマダム・チェルケッティと共にこのアイディアが再び生まれてきた。まずマリア・カラス、それにアニタ・チェルケッティとマルタ・メードル、リタ・ゴールは、私の人生に本当に大きな影響を与えた。だからあの3人ともを見つけることができて、本当に幸せだった。

マルタ・メードルとリタ・ゴールは未だにすばらしい声で歌っていますね。

 ああ、二人とも若いからね。メードルは85歳、ゴールは・・・・70歳だ。チェルケッティはまだたったの65歳だ。いちばん若い。映画のラストでチェルケッティと共に、彼女の昔の録音<ノルマ>を聴く場面は人生そのものを描いた場面なのだ。

なぜイザベル・ユペールとキャロル・ブーケに出演してもらったのですか?

 自分でインタビューをずっとやってるのにうんざりしてしまったのでね。撮り始めたときには私のカメラ・ウーマン、エルフィ・ミケシュと二人だけで仕事が多すぎた。それにユペールとブーケが入ってくることで映画が拡がると思う。とくにユペールには深い友情を感じているし、別のやり方で歌を愛する人々を映画に招き入れるのはいいアイディアだと思ったんだ。イザベルは歌が大好きだし、キャロル・ブーケもそうだ。そこで雰囲気が変わるわけだ。

イザベル・ユペールが歌うだなんて、さっぱり知りませんでしたよ。

 きっと彼女自身も知らなかったよ(笑)。どっちにしろイザベルがスクリーンで歌っている姿なんて、これが始めてだ!彼女が電話してきて「ヴェルナー、あれ使っちゃだめよ!」「ああイザベル、もちろん使うさ。でもとても上品なやり方でね」と答えた。これは彼女のイメージにとっても、いいことだったと思うよ。見た人は彼女のことをとても自由で、楽しい、すてきな人だと思うだろう。

インタビューの場所にはいろいろと気を遣っていらっしゃいますね。特にロウソクの森に囲まれたローレンス・デイルだとか・・・。

 ロウソクだとかの雰囲気が、この映画のように誰かと密接な関係になるときには大事なんだ。それにカメラ・ウーマンのエルフィは、ああいう光で撮影するのがとても得意なんだ。エルフィとのつきあい・・・・29年になる。当時彼女は写真家で画家だった。’71、2年ごろから映画を始めた・・・・映画作家としてね。私が最初に撮影監督として彼女と組んだのは、84年の「薔薇の王国」だ。それから一緒に「マリナ」(91年)を撮影した。この時の主演はイザベル・ユペールだ。だからこの映画で3本目になる。今は夏からエルフィと一緒に、指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーについての映画を撮影している。



      

「愛の破片」の中に出てくる絵画の意味は?

 2枚あるが、ひとつはロワイヨーモンの修道院にあった全く無名の小さな祭壇画で、撮影禁止だったのだけど撮影しておいた。これが主題にとって貫通する糸となるわけだ。もうひとつは私にとって一番好きなフランスの画家、ジェリコーが「メドゥーズ号の筏」のために描いたスケッチだ。絵画はどちらもワンテイクだけで、それを分析するように撮影した。

なぜ修道院で撮影したのですか?

 あの場所がとても綺麗だったからだ。最初は2つの別々の場所で撮影しようと考えた。シュレッツインゲンの劇場、1780年代のとても美しい劇場だ、と最後の部分はヴェルサイユの劇場で撮影しようと思っていた。だが、結局、美術のアルベルト・バルザック、彼女はここ20年私の仕事のほとんどで美術と衣装をやっているのだが、彼女がよく知ってる場所で撮影したらどうか、と言ってきたんだ。とても静かな場所で気にいると思う、と言うので行ってみて、ここで撮影しようと決めたんだ。それで、まずこの修道院があり、それから古音楽のための学校で撮影した。とても気持ちのいい場所だった、瞑想的な雰囲気がある。



      

その瞑想的な雰囲気に混ぜて、近現代のものもずいぶん見せていますね。地下鉄だとか。

 それは窓の外を見れば常にあるものだろう。コントラストを作り出してもいる。今われわれの時代が、どこにいるのか、を見せるべきだと思った。それからスフィンクスまれもパリにいる。私にとっては美しいシンボルだ。歌わないで、(水を)吐いている(笑)。



      

映画の中にあなた自身がたびたび出てきますが・・・。

 本来私は、自分自身の姿を見るのは好きではない。だがこの場合、映画の主題があまりに私自身に親しいものだったから、直接中に飛び込んだ方がいいと思った。



      

最後に、映画の中であなたがいつも歌手たちに尋ねているのと同じことを聞かせてください。”愛”とはあなたにとって何ですか?

 わからない。でも知らないからこそ探究する必要があるんだ。哲学的、あるいは心理学的な説明はあるのだろうけど、私から見れば哲学的な説明には何の意味もないんだ。愛の存在、あるいはその不在を探究しなくてはいけない。愛の探究は続くんだ。なぜ映画、演劇、オペラを演出するのか・・・・それは私にとって愛の探究のひとつの形なのだろう。だから”愛の破片”なんだ。

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