六月大歌舞伎・歌舞伎座夜の部

伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)

by 高市梅莟 (劇団フライングステージ)

 6月の歌舞伎は、これから書く歌舞伎座、それと国立劇場で「歌舞伎鑑賞教室」、三越劇場で若手歌舞伎だけです。そのわりには歌舞伎座に出演している役者が少ないわねえ、と思ったら、実は福岡に「博多座」なる芝居小屋ができまして、そこの柿葺落公演に主だった役者がゴッソリ行っちゃってるわけよ。そんなわけでメンバーが手薄なのです。私がいくら歌舞伎好きでも、さすがに博多までは行ってられねえわよ。

 私が見てきたのは夜の部で、演目は『鎌倉三代記』『鐘の岬・浮かれ坊主』『伊勢音頭恋寝刃』の3本立て。今回はこの最後の『伊勢音頭』について書いてみたいと思います。まずは戯曲全体のあらすじから。


[あらすじ]
 阿波国の当主の叔父蜂須賀大学はお家横領を企んでいる。家来の徳島岩次を使って殿の信望厚い家老の今田九郎右衛門失脚を謀り、今田の子息万次郎が預かっている名刀青江下坂を奪い取る。万次郎はいったんは刀を取り戻すが、岩次にそそのかされて伊勢古市にある油屋のお岸に入れ揚げ、茶屋の支払いに困って取り戻した刀を質に入れてしまう。そして質屋はいずくともなく消息を断って、刀は行方不明になってしまう。(発端)

 いつものように茶屋へ向かう万次郎と奴林平は、道中で岩次ら一行と出会うが、今度は刀の折り紙(鑑定書のこと。ちなみにオリカミと読みます)までだまし取られてしまう。(相の山の場)

 家老今田九郎右衛門の義兄藤浪左膳の指示により、九郎右衛門の家来筋にあたり現在は伊勢神宮の御師(おし)の養子となっている福岡貢と奴の林平は青江下坂と折り紙を探しに出かける。一方蜂須賀大学から岩次に当てた密書を岩次の手下が持っているのを見つけた林平は、奪い取ろうと揉み合ううちにその半分だけをひきちぎる。(妙見町宿屋の場)

残りの半分を奪い取ろうと、林平は手下どもを追っかける。(野道追駈・地蔵前の場)手下を追い詰めた林平と貢は、ついに二見ヶ浦で密書の残り半分を奪い取り、悪事の全貌を知る。(二見ヶ浦の場)

 福岡貢は養父福岡孫太夫の家で、なじみの油屋の遊女お紺から徳島岩次・藍玉屋北六という不審な阿波の客が油屋に来ていて、朋輩のお岸と自分を身請けするつもりでいることを聞く。また伯母お峯のお蔭で、行方不明になっていた質屋金兵衛から青江下坂を取り戻す。(太々講の場)

 青江下坂を取り戻したことを万次郎(秀太郎)に報告しようと、福岡貢(仁左衛門)は油屋に足を運ぶ。お岸(高麗蔵)は万次郎を大林寺の裏門に待たせてあり、行き違いになると困るから油屋で待っていてくれと言う。

(ここからが今回上演された「油屋の場」です)

 仲居の万野(玉三郎)は、お紺(福助)は阿波のお客との付き合いで会わせる訳にはいかない、どうしてもここにいたいのなら代わりの妓を呼べと貢に詰め寄る。しかたなく代わりの妓を呼ぶのを承知すると、今度は腰の物をあずかるという。大事な刀だから渡せないと貢は断るが、料理人の喜助(富十郎)が現れ、自分が責任をもって預かる言うので、貢は承知する。実はこの喜助、元は貢の家の家来筋に当たる者で、刀が青江下坂であると聞いて納得する。二人が奥に引っ込むと、岩次(弥十郎)が出て来て自分の刀と青江下坂を取り替えるが、それを喜助が目撃する。

 奥から貢が戻ってくると、そこに現れたのは醜女のお鹿(田之助)。冷たくあしらおうとすると、お鹿はさんざん金を用立ててあげたのにつれないと嘆く。身に覚えのない貢は万野を呼んで詮議しようとするが、万野は確かに渡したと言い張る。一部始終を聞いていたお紺は貢に突然の愛想づかし(あんたなんてもうキライよ、フンッ!とやること)をする。笑い者にされ、怒りに震える貢は、喜助から刀を引ったくって店を出て行く。

 お紺は岩次の女になるのを承知するのと引き換えに刀の折り紙を受け取り、奥の間に引っ込む。万野・岩次たちはこうして刀と折り紙の二つが揃ったことを喜ぶが、刀が元の自分のものであることに気づくと、万野は喜助を呼んで刀を取り替えて来いと命じる。その後で万野は、喜助が元々貢の家来筋であり、間違えたふりをしてわざと青江下坂を貢に渡したことに気づき、自らが貢の後を追う。

 夜も更けて、刀が入れ替わっていることに気づいた(本当は入れ替わっていないのだが、気が動転して気づいていない)貢は、油屋に戻ってくる。後を追って万野がやってくるが、貢は勢い余って万野を斬り殺してしまう。妖刀でもある青江下坂に操られるように、貢はお鹿や北六(芦燕)、岩次などを次々と斬り殺していく。

 我に返った貢は、ことの惨状に改めて気づき、もうこれでは生きてはいられないと自害しようとする。そこへお紺がやってきて、愛想づかしはすべて折り紙を奪い取るためだったと告白される。そして喜助が現れ、貢が持っている刀は青江下坂であることを知る。死ぬよりこの二品を国元に届けるのが先だという喜助の言葉に、貢は思いとどまる。(油屋店先の場・同奥庭の場)

*     *     *     *     *

 寛政8年(1796)大阪角の芝居で初演、作者は近松徳叟。今回の上演はあらすじにある「油屋・同奥庭の場」のみで、上演時間は約80分。昨年仁左衛門を襲名した孝夫さんは、この芝居を上演するときはいつも「野道追駈」から出していたのですが、今回は珍しく「油屋」からです(ただ、この「油屋」だけが上演される方がむしろ普通)。

 この芝居は上方の演出と江戸の演出の2つのやり方があり、今回は仁左衛門の貢ですから、かなり上方の色が濃い。上方の演出では、この貢という役は「辛抱立役」、つまり罵詈雑言を浴びてもいじめを受けてもひたすらじっと耐え抜く、という演じ方です。つまりはどんどん内向していく役で、腹に納めていた怒りが頂点に達したとき、それが大変なエネルギーとなって爆発する(要するに「十人斬り」につながっていくわけね)。東京のやり方は音羽屋(菊五郎家)系の演出で、辛抱立役には違いないのですが、ただただ耐えるだけでなく、もっと派手な演じ方をします。
 
芝居の見所としては、その貢の感情の動きと、貢をいじめ抜く仲居万野のしたたかな意地悪さ、遊女お紺の美しさ、そして醜女の遊女お鹿のあわれさ、などでしょうか。

 さあて、私の感想ですが……あまり面白くありませんでした。今まで見た中で一番つまらなかった。

 私は今までこの「油屋」を5回見ています。初めて見たのが昭和59年9月の歌舞伎座(團十郎の貢、玉三郎のお紺、田之助のお鹿、富十郎の万野。ただしテレビ中継でですが)、2回目が昭和62年6月大阪中座(孝夫の貢、時蔵のお紺、松鶴のお鹿、徳三郎の万野。これもテレビ中継)、3回目が平成元年6月新橋演舞場(菊五郎の貢、玉三郎のお紺、左團次のお鹿、芝翫の万野)、4回目が平成4年4月歌舞伎座(梅玉の貢、梅幸のお紺、富十郎のお鹿、歌右衛門の万野)、5回目が平成7年6月歌舞伎座(孝夫の貢、雀右衛門のお紺、田之助のお鹿、玉三郎の万野)。うーん、結構見てるなあ。

 まずは仁左衛門の貢から爼板に乗せましょうか。貢を演じる役者の中で、この人が一番しっかりしているのじゃないかな。上方言葉も板についていますし、柔らかみがあって、辛抱立役という性根もしっかりしている。ただ、音羽屋系の演出に慣れてしまっているので、今ひとつ物足りない感じはします。もちろん、それが上方の演出のせいなのか、それとも仁左衛門の演技によるものなのかは微妙です。

 貢の怒りは、(1)お紺という馴染みがいながらお鹿を呼んだことで、岩次たちから「箒客(ほうききゃく)」と馬鹿にされる所、(2)お鹿が貢に金を都合したと聞いて驚く所、(3)お鹿から借金の証文を突きつけられ、誰か仲介者がいるはずだと仲居の万野を呼ぶ所、(4)借金した覚えはないと言う貢に、万野が「おまえも余程しらにせじゃな」と言ってうちわの柄で貢の頬を小突く所、(5)貢が証文は偽筆だと言った後、万野が「それをわたしが知ったことかいな」と言い、丸めた証文を顔に投げつけられた貢が青筋立てる所、(6)見ていた岩次たちから「伊勢乞食」と笑われる所、(7)お紺から愛想づかしをされ、お紺に掴みかかろうとする所、と、大きく分けると7カ所を軸にしてその度合いが上がっていくわけです。

 仁左衛門はどうも形容本位と言おうか、何か型どおりに怒っていくわけ。とくに(5)の所で、音羽屋系だと、思わず刀をとろうとするが、喜助に預けてしまってないので、腰にさしていた白扇を刀に見立てて引きちぎるという派手な型がついていますが、松島屋(仁左衛門家)のやり方だと手を後ろに回し、身体をハスに切って見得をするのです。このようにやることが地味ですから、本当に顔に青筋でも立ててくれないと説得力がありません。覚えのないことで周りから笑われ、馬鹿にされ、自分の言うことは誰からも信じてもらえず、挙げ句の果てには唯一の自分の味方と思っていたお紺から愛想づかしをされてしまうのですから。全体的に抑え気味で演技するのだったら、演技から演技へ移る時に、さりげない、細かい工夫が必要になるのではないでしょうか。お紺から愛想づかしをされれば誰でも自然に怒れます。そこに来るまでがポイントなのじゃないかな。音羽屋系は万事やることが派手ですから、内面の感情が伴っていなくても(という言い方は失礼ですかね)形だけで見られるんです。

 福助のお紺。このお紺という役は愛想づかしのくだりがすべてで、後はすべて受けの演技です。ですから、もちろん愛想づかしは気を入れてやらなければいけません。女郎を騙して金を取るなどということを自分がやるはずがないと言う貢に、「そう潔白にも言われますまい」と言いかけることから始まり、最後貢が店から出ていくとき、「もうこれぎりじゃぞえ」と泣き伏すところまで。お紺は本心から貢が嫌いになったわけではなく、刀の折り紙を岩次から奪い取るため、海千山千の用心深い万野に怪しまれないようにするために泣く泣く縁切りをする。ところがこの芝居は「油屋」からやると、岩次が折り紙を持っていて、それを奪還するためにお紺が岩次の言いなりになっているという部分が、演技の上でもセリフの上でも最後にならないとわからない仕組みになっている。

 『籠釣瓶』では「栄之丞浪宅の場」があるため、八ツ橋の愛想づかしの理由が最初から明白なのでいいですが、この『伊勢音頭』では下手に演じるとお紺が本当に嫌いになったようにしか見えない。そのくせ、貢から「いよいよわしの女房になることは嫌じゃな」と言われると「いえ、嫌じゃないぞえ」とあわてて答えてみたり、傍らで眠っている(実は寝たフリ)岩次に「寝た顔せずと、起きいなア」と泣き崩れてみたり、とどめは最後に「もうこれぎりじゃぞえ」と大泣きに泣いてみたり……まあ、脚本の構成にも問題がないわけではないのですが、愛想づかしの前半から気持ちの置き場をきちんと決めてから演じないと、この「泣き」の部分が見ていて妙に唐突に感じられ、わけのわからない演技になります。福助のお紺はこのようなことを考えて演じているのかどうかあやしいもんです。通りいっぺんで可もなく不可もなくと言ったところで、取り立ててキレイでもなく、色気があるわけでもない。

 お紺はやはり玉三郎が一番でしょう。「油屋のお紺は器量がよい」「女郎がお客を騙すのは当たり前」と言うセリフ(両方ともお鹿の)にふさわしいお紺です。もちろん芝居として見たときの難点は玉三郎にも多いのですが、それを黙らせるだけの器量と色気がありますもの。この2つがない人はそれ以外の部分で見せないと、役がしぼんでしまいます。その「それ以外の部分」が福助にはない。

 田之助のお鹿、もうこれは絶品です。田之助は年齢も70近くになり、立ち居がかなり大変そうで(この役は立ったり座ったりが多いんです)、それがせっかくの演技を邪魔している部分もありましたが、それでもすばらしかった。暖簾から少し顔を出して、その後はお尻をふりながらにじり出てくる所の可愛らしさ、貢に会った嬉しさを表現した満面の笑顔、蓼だ、へちものだと馬鹿にされた後で言う「もし、油屋のお紺さん。イエいなア、あぶこんさん」以下のセリフまわしの絶妙さ、貢の胴欲さをまるで母親にでも訴えかけるように万野に言いつける無邪気さなど、言い出したらきりがない。

 このお鹿という役は、やりようによっては貢やお紺を喰ってしまうほどの役です(昔勘三郎が演じたお鹿があまりにもすばらしくて、かの北條秀司が『油屋お鹿』という芝居を書いたことなどがいい例でしょう)。女形は概して醜女の役はやりたがらないので、このお鹿は立役(普段男役の役者)によって演じられることが多い。ところがそうすると、「ブス」な部分ばかりが強調され、ただのチャリ(笑かし役)になってしまう。でも「醜女」とは「醜い女」なんですから、「醜い」部分ばかりを出すのはおかしいと思います。やはり「女」も演じてくれないと。見終わったあと、哀れさが残るお鹿が私は大好きで、笑いしか残らないお鹿はいやですね。
 お鹿を初演したとき、田之助さんは仲間内から「そんな役やっちゃいけない」と言われたそうですが、それでも勘三郎さんのお鹿を目標に工夫を重ねてきた田之助さんはエライと思います。

 最後に、玉三郎の万野。「仲居万野」という役はいわばこの演目の「狂言回し」で、芝居の進行に重要な役割を果たしています。ですから、すべての芝居をおもしろくないものにしたのはこの人ですね。相変わらず自分の演技を見せることばかりが先に立って、全く相手役とセリフが噛み合っていない。つまりやりとりが成り立っていないのですわ。年増の仲居の憎らしさばかりを表現しようとしているから、喉にかけた発声をして、時にはダミ声にまでなっている。そのあざとさばかりが目について演技に好感が持てない。まあ、言いたいことはたくさんあるので、順を追ってお話ししましょう。

 その前に、ちょっと貢の職業である「御師」(芝居では「おんし」と発音していますが、「おし」が正しい)について説明しましょう(公演プログラムに小山觀翁さんが詳しい解説を載せていらっしゃいましたので、それを参考にします)。御師とは、全国でお伊勢参りをしたいと言う人たちを集めて伊勢講という団体を組ませ、旅行の日程を調整し、宿屋の調達から駕籠の手配、しまいには精進落としの女郎遊びまで手配するという、要するに旅行代理店みたいな職業です。儲けが上がるかどうかは御師のさじ加減一つですから、御師の機嫌をとることは宿屋や遊郭にとっては重要課題で、そのために自分の店が抱えている女郎を差し出して良い仲にさせてしまう(それが貢とお紺です)。御師は宿屋や遊郭ではかなり大きな態度を取り、タダで遊んで帰っていたようです。

 亭主ならそれも駆け引きと割り切るでしょうが、現場を仕切る仲居の万野に我慢できるはずがない。だから万野は貢を見ても嫌な奴が来たとしか思わない。「ナニ、貢さんがおいなんしたとえ」云々のセリフを陰で言った後、玉三郎の万野はすました顔でスーッと出てきて貢の横に座るのですが、これではまるでお紺が出てきたよう。露骨に嫌な顔をしなくても、その嫌さを身体からにじませるべきです。

 次に、貢に「一文にも成らぬ客を相手にするのは、うっとうしいこっちゃナア」と言いますが、これを写実に独り言として演じている。でもこれは貢に聞こえるように言わないと芝居になりません。このような決めゼリフを玉三郎はすべて息を引いて言っている(「暑い時分じゃ。どうじゃぞいナア」「ほんに仲居の私はあってものうても」というセリフなどもそうでしたね)。そうでない時は、逆に力んで喉を絞めて発声するからダミ声になる(「モシ貢さん、どうなとし」「お前お呼び」など)。

 その後代わりの妓を呼べと詰め寄ったり、刀を預かる預からないと押し問答をするくだりで、貢に意地悪を言いかけたり、貢が自分の言うことを承知すると突然機嫌が良くなったりする演技が交互にあるのですが、その変わり目が立たない。貢との受け答えをきっちりやった上で気分を変えていかなければならないのに、セリフのやりとりが成り立っていないから、ただの「けだるいオバサン」にしか見えませんでした。

 お鹿への借金証文のくだりになると一層ひどい。貢は元は武士で、今でも主筋にあたる万次郎のために忠義を尽くしているくらいだから、時代劇によくでてくる「越後屋」のようなあくどさを持つ御師になりきれない。一方、万野は百戦錬磨の女郎屋の仲居で、しかも女であるという武器を最大限に生かしている。だからどう見ても貢に勝ち目はなく(万野に勝つ唯一の手段は殺すことです)、このくだりでは貢は万野の思い通りに転がされてしまうはずなんです。ところが玉三郎は一生懸命背伸びをしながら貢と喧嘩しているようにしか見えない。昔ふられた男に敵討ちしている女ですね、あれでは。それは、先ほども述べたように、「憎たらしさ」の表現を主眼にしているせいだと思います。

 最後の殺し。切られた玉三郎は海老反りこそしませんでしたが、反った体を十分空中で止めてから死ぬ。どうしてあそこまで自分を美しく見せたいのか。歌舞伎のお芝居はすべて勧善懲悪なのですから、悪はむごたらしく退治されなければなりません。残酷な死に様こそ万野にふさわしい。事実歌右衛門の万野は残酷に殺されています。万野は美しい女ではないのです。万野こそ「越後屋」なのですから。

 玉三郎はプログラムに「(万野は貢のことを憎からず思っているのでは。)そうでないとあそこまで貢をいじめないんじゃないでしょうか。もちろんそれがあらわになってはいけません」と書いていますが、それは考え違いです。万野は岩次たちの企みに荷担している。もし企みが成功すれば、蜂須賀大学が阿波国の当主になり、岩次はうまくいけば家老職です。そうなれば万野も一介の仲居の身分にいつまでもくすぶっている必要はなくなるのです。そんな野心を持っている腹黒い女、それが万野です。
 もし万野が富十郎で、玉三郎がお紺だったらもっとおもしろかっただろうに、ああ勿体ない勿体ない、と思いながら歌舞伎座を後にしました。

(6月21日所見)

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