7月歌舞伎座夜の部「伊達の十役」

『慙紅葉汗顔見勢』(はじもみじあせのかおみせ)

by 高市梅莟 (劇団フライングステージ)

 いやいや、お久しぶりでございます。7月後半から8月中旬にかけて、アタクシ急激に仕事が忙しくなりまして、思わず「ヤッホー」と叫びたくなるような原稿の山。いけないことと知りつつも、少し時間が空いてしまいました。
 7月の歌舞伎座は毎年「猿之助公演」と決まっておりまして、澤潟屋(「おもだかや」。猿之助の屋号です)得意の早替りを呼び物にした芝居が必ず1つは出ます。今年は「一世一代」と銘打った「伊達の十役」です。皆様ご存じかと思いますが、アタクシは大の猿之助ギライ(でも食わず嫌いではありませんよ。ちゃんと見た上でのことです)。「あんなの歌舞伎と呼ばないでっ!」などと頑固ババアのようなことを言ってしまうほど嫌いです。でも、「一世一代」を謳い文句にされると、たとえそれが猿之助でも、「それじゃあ行って見ようかしら」って気になるのが人情っつうもんじゃありませんか。ですから久々に7月の歌舞伎座に足を運んだわけです。もちろん、思い切りけなしてやるためですわ、ホホホ。

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【あらすじ】
 足利家の執権仁木弾正(猿之助・一役目)は、稲村ヶ崎の獄門台で父親の赤松満祐の亡霊(猿之助・二役目)から「旧鼠の術」を授かり、足利家打倒を決意する。この妖術は子の年・子の月・子の刻生まれの男子の生血を満祐の命を奪った古鎌に注いで討たれると破れてしまうのだが、それを立ち聞きしていた足利家の元家臣絹川与右衛門(猿之助・三役目)は仁木から鎌を奪い取り、子の年月日刻そろった自分がいつかは役に立とうと心に決める。[稲村ヶ崎の場]

 仁木は幼君鶴千代の暗殺を企み毒薬を調達させるが、物乞い坊主の土手の道哲(猿之助・四役目)に奪い取られる。道哲は企てを知り、自分も荷担することにする。一方廓通いの当主足利頼兼(猿之助・五役目)は大磯の遊郭へ向かう途中の花水橋で暴漢に襲われるが、側近の山中鹿之助(右近)に助けられる。[鎌倉花水橋の場]

 大磯三浦屋で放蕩する頼兼のもとへ、家老の子息渡辺民部之助(歌六)が腰元累(猿之助・六役目)の案内でやってくる。外記左衛門は頼兼を諫めるため、累は夫与右衛門の勘気を解くためである。そこへ頼兼の馴染みである高尾太夫(猿之助・七役目)が戻ってくる。仁木の計らいで高尾は身請けされることになっているのだが、頼兼の叔父で足利家の後見役でもある大江鬼貫(段四郎)が現れ、高尾に横恋慕する。頼兼は鬼貫を一蹴し、高尾を館に連れ帰るよう命じる。もちろんこれはすべて鬼貫・仁木の陰謀で、聞いていた民部之助が思案にくれているところへ与右衛門が来る。与右衛門は仁木の企みと妖術のことを民部に教え、お家のためには妻累の実の姉である高尾を自分が殺害するしかないと決意する。[三浦屋の場]

 屋形船仕立ての奥座敷で、与右衛門は高尾を殺害、高尾はその真意がわからぬまま与右衛門を恨んで息絶える。物蔭に潜んで一部始終を見ていた道哲は与右衛門から鎌と高尾の裲襠を奪って鬼貫へ注進しにいく。[同奥座敷の場]

 頼兼の許嫁京潟姫(笑也)は、管領山名持豊を中心とした鬼貫・仁木たちの悪巧みを知り、とるものもとりあえず頼兼のもとへ急ぐ。そこを山名家の追手に襲われるが、民部之助と累に救われる。同じところに与右衛門が道哲と廓の者に追われて逃げてくるが、地蔵堂に身を潜めていた民部は道哲から鎌を奪い返し、累に渡す。姫を伴って館に向かおうとした累は誤って鎌で足を切ってしまうが、その瞬間高尾の裲襠が舞い上がって高尾太夫の亡霊が現れ、累に取り憑く。顔半分があざになり片足を引きずる累は姫を鎌で斬りつける。与右衛門は鎌をもぎとり、妻の累を殺す。そこへ頼兼・仁木・民部之助が来合わせ、与右衛門・京潟姫・道哲がまじって暗闇の中を揉み合いになる。最終的に、幼君調伏を依頼する仁木の密書は与右衛門の手に、鎌は道哲の手に渡る。[滑川土橋の場]

 幼君鶴千代に仕え、その身の安全を計っている乳母政岡(猿之助・八役目)の所に、管領山名持豊の妻栄御前(歌六)が鶴千代を見舞いに来訪、仁木弾正の妹八汐(宗十郎)らと共に出迎える。栄御前は持参した菓子折を鶴千代に差し出すが、それを政岡が制止、栄御前と八汐にたしなめられて政岡は窮地に陥る。突然政岡の一子千松が飛び出し、その菓子に手を出すが、たちまち苦しみ出す。八汐はすかさず千松を押さえつけて懐剣を首に突き刺す。目の前で我が子が殺されても若君をかばうばかりの政岡を見て、栄御前は政岡が我が子と幼君を取り替えているのだと早合点し、悪の一味の連判状を政岡に渡して帰っていく。後に一人残った政岡が息子の死を褒めている所へ八汐が襲いかかるが、政岡は八汐を一刀のもとに斬り捨てる。しかし連判状は大きな鼠がくわえて逃げ去る。[足利家奥殿の場]

 床下で見張りをしていた荒獅子男之助(猿之助・九役目)は連判状をくわえた鼠を鉄扇で打つが、逃げられてしまう。術を解いて人間の姿に戻った仁木は悠々と宙を去っていく。[同床下の場]

 足利家国家老渡辺外記左衛門(吉弥)は、鬼貫・仁木を糺す願書を持って山名館に乗り込むが、山名持豊は全く取り合わず、訴えを握りつぶそうとする。そこへ執権細川勝元(猿之助・十役目)が駆けつけ、後学のためにと願書に目を通し、「虎の威を借る狐」の講釈をしながら山名と鬼貫をやりこめる。[山名館奥書院の場]

 幕府問註所の外では外記左衛門の息子である民部之助が成り行きを案じている。そこへ与右衛門が現れ、仁木の悪事を証明する密書を渡す。折から駕籠でやってきた勝元に直訴し、勝元は密書の中身だけを持って問註所に入っていく。古鎌を仁木に渡して金をもらおうとやってきた道哲を与右衛門は殺害、鎌を奪い返し、これで自分も役立てると喜ぶ。問註所では密書が証拠となって外記側の勝利し、家督も正式に鶴千代が継ぐことが決定する。[問註所門前の場」

 問註所の白洲で、敗れた仁木弾正が切腹の願いをとりなしてほしいと外記に頼むが、隙をついて外記を斬りつけ、妖術を使って消える。屋根の上で大鼠となった仁木に、与右衛門は自分の生血を鎌に注いで仁木に立ち向かうと、たちまち妖術が破れ、仁木は民部と与右衛門にとどめを刺される。勝元は足利家跡目の墨付きを外記に渡し、外記は安心して息絶える。[問註所白洲の場]

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 文化十二年(1815)江戸河原崎座で七世團十郎が十役早替りで演じた芝居。原作は四世南北ですが、実際の台本は残っておりません。ですからこの『慙紅葉汗顔見勢』は、猿之助と脚本家の奈河彰輔が作り直したもので、はっきり言って新作です。昭和54年4月明治座初演、今回で9回目の上演となります。アタクシが見たのは昭和61年7月の歌舞伎座でして、このときは最後の問註所白州の後にさらに大喜利所作事「垂帽子不器用娘」(「びらりぼうしざいしょのふつつか」と読みます。いい加減の極みでしょ)がついていて、休憩を含めて5時間半、見終わった後でクタクタになりましたっけ。

 猿之助のポリシーとして「3つのS」というものがあります。彼の主張によれば、「今のお客様にお見せする歌舞伎には、まず起承転結のはっきりした筋立てを持つ物語(STORY)、テンポがよくメリハリのきいた展開(SPEED)、そして理屈抜きでお客様にインパクトを与える視覚性(SPECTACLE)がなければならない」のだそうです。実際猿之助が手がける物にはすべてその3つが徹底しています。この「伊達の十役」では、幕開きに「口上」がついていまして、猿之助が裃姿で舞台に現れ、パネルを使って自分が早変わりする人物とあらすじの説明をします。すでにこの段階でお客は拍手喝采の大喜び。それから芝居が始まるのですが、各場面は平均すると2,30分(「御殿」だけはさすがに60分近くかかりますが)で、トントン話が進みます。そして例の早替りですが、脚本の奈河彰輔によれば、「替わる回数四十一回、所要時間は一番長いので三分四十秒、最も早いので二.五秒、平均四十七秒」だそうです。特に発端の稲村ヶ崎など出てる役者は猿之助一人だけですし、滑川土橋では27分に六役十回の早替り。大仕掛けな大道具や宙乗りなどもあって、これだけ猿之助が奮闘すれば、客は喜ぶのも当然でしょう。明治時代劇聖と呼ばれた九代目團十郎以降、庶民とはかけ離れた妙に高尚な「芸術」になってしまった歌舞伎を、江戸時代の泥絵具的な、見せ物的な歌舞伎に戻そうと猿之助はしているわけです。

 それともう1つ。昭和30年代後半から昭和50年頃まで、歌舞伎界には「大幹部」と言われる名優がきら星のごとくいた。寿海・三世左團次・先代鴈治郎・白鸚(先代幸四郎)・勘三郎・三津五郎・勘弥(玉三郎のお父さん)・松緑・梅幸・十三世仁左衛門・延若・多賀之丞[ここまで故人]に加えて、歌右衛門・羽左衛門・芝翫・雀右衛門・扇雀・宗十郎という現存メンバーですもの、この人達の出し物が並べば若手役者の出番なんかありゃしない。脇役・端役にいたるまで古老が固めていましたし。しかも歌舞伎は門閥制度ですから、大幹部を後ろ盾にもつ御曹司なら役もつきます(たとえば今の團十郎・菊五郎・幸四郎・吉右衛門・故辰之助・梅玉など)が、猿之助は襲名直後(昭和38年)相次いで祖父猿翁・父三世段四郎を亡くしてしまいます。そんな中で、襲名はしたものの、とにかく役がつかなかった。そのままションボリして、「ま、いいか」とひよってしまうほど猿之助は軟弱ではありませんでした。また、歌舞伎は国の重要文化財という扱いを受け、松竹という大会社の庇護の下、各役者にお客を呼ぼうという意識が欠けていた。そこが他の演劇と違うところです。歌舞伎役者の常識は通常の俳優の非常識、とでも言ったところでしょうか。この点でも、猿之助は役者として当然の(というか、ごく普通の)感覚を持っていた。「客が呼べなければ大きな役はつかない、公演は打てない」という感覚です。そこで彼は「春秋会」という自主公演を打ち、孤軍奮闘してきたわけです。その努力が認められ、現在歌舞伎座で自分の名前を冠にした公演を年に二回も持っている、というか、持つことができているのは彼だけです。この点は他の歌舞伎役者も見習ってほしいところですね。

 澤潟屋の努力、芝居に対するそしてお客に対する姿勢は評価すべきものです。そして彼の歌舞伎精神に賛同する若い役者を集め、育てていることもすばらしい。でも、私は彼の芝居がキライです。

 澤潟屋の唱える「3つのS」。そこにすべてがあります。
 まず、「STORY」(起承転結のはっきりした筋立てを持つ物語)ですが、確かに彼の芝居はわかりやすい。歌舞伎は戯曲全体の一場面だけ上演するという、西洋演劇では考えられないことをよくします。そのため、前後の筋がわかりませんから、その場面だけ上演されても内容的にわけがわからないことが多い。よしんば1つの戯曲全体が上演されても、筋が複雑に絡み合っていて理解不能ということもままあります。昔のお客は「話を楽しむ」ためでなく、「役者を見る」ために歌舞伎を見たので、それでも良かったのでしょうが、今のお客はそれではついていけません。「理屈のほか」を楽しむ人が今は少なくなりました。だから起承転結のはっきりした、ある程度リアリティーのあるものでないと、そっちに気を取られて歌舞伎を楽しんではくれないのです。そこをいち早く察知して改良に乗り出したのが猿之助で、「理屈のほか」にこそ歌舞伎らしさがあるとしてこだわったのが歌右衛門でしょう。

 猿之助の考えはそれはそれとして評価できるものですが、下手をするとただの筋売りになってしまう危険性がありますし、事実そうなっていると思います。でもそれではお客が飽きてしまう。そこをあきさせないのが彼の早替りであり宙乗りなのです。ところが彼の歌舞伎(今後は「猿之助歌舞伎」と呼ぶことにします)はそれで終わってしまうんです。『義経千本桜』の「四の切」のように、江戸時代から受け継がれてきた演出も型もしっかりしたものならあまり気にならない(それでも最後の狐忠信の宙乗りに私は必然性を感じず、単に「オーッ」と言わせるだけで芝居全体をおもしろくさせるものとも思えない)のですが、奈河彰輔と組んで作った「猿之助歌舞伎」の場合、そこが非常に弱く、感動につながっていかないのです。

 次に「SPEED](テンポがよくメリハリのきいた展開)。これは「テンポがのろくて退屈だという観客の声を参考にした」そうです。でもそれって、どういう意味で「テンポがのろく」、どういう意味で「退屈」なんでしょうか。そこを明らかにしないといけないと思うわけ。確かに「猿之助歌舞伎」は、全体的にアップテンポです。次から次へと場面が変わっていきます。そういう意味ではお客に飽きる暇を与えないでしょう。でもその「テンポ」を産み出しているものは早替りを代表とする次の「スペクタクル」的要素です。詳しくは次で述べますので割愛しますが、それでは「スペクタクル」が全くない、一場面で2時間を要する芝居はだめなんでしょうか。そんな芝居は歌舞伎にいくらでもあります。要は役者の演技だと思うんですよ。「感動を生む」演技。それがあれば、お客は黙って2時間でも見続けるでしょう。単に澤潟屋にはそういう演技が出来ないし、また彼の劇団にそれが出来る人はいないというだけのことです。逆にそれがわかっているから、確信犯的に澤潟屋はそういう芝居作りをしているのかな。そうすると、「スペクタクル」的要素で隙間を埋められる唯一の役者「市川猿之助」が死んだら、何も残りませんね。市川右近にその力があるとは思えませんし。でも「芸は一代」っていうから、それでいいのか。なーんだ。

 最後に 「SPECTACLE」。猿之助の言葉によりますと、「スペクタクルとは観客に理屈抜きでインパクトを与えるもので、大道具や特殊効果の大仕掛けという意味にとどまらず、拡大解釈すればお芝居の楽しさ面白さという意味も含まれ、さらにはドラマ自体の劇的展開としてのスペクタクルも大事にしようということ」だそうです。ここで彼が発言していることはどれ一つとっても着実に「猿之助歌舞伎」の中で実行されていると思います。何につけ、有言実行というのは大事なこと。ただ、今回の「伊達の十役」だけでなく、彼が今まで復活(というか創作)してきた「通し狂言」、たとえば『當世流小栗判官』『菊宴月白浪』『獨道中五十三次』など(他にもありますが、澤潟屋の専売特許と言えないものは除きます)もそうですが、これらの芝居から早替りや宙乗りなどの「スペクタクル」の要素を取り除いたとき、後に残るものは何でしょう。そう、何もありません。少なくとも私はそう思います。確かに彼の歌舞伎はわかりやすく楽しい。時間の経つのを忘れるほどです。でも、心の琴線にふれるような感動は、歌舞伎の持つ独自の音楽性は味わえないのです。

 猿之助の最大の欠点は口跡の悪さです。何か上っ面な、腹の奥底から出していないような声。どんなに扮装が、つまり見かけが変わっても、中身が全く変わっていない。演じ分けができていないのです。発端の「稲村ヶ崎の場」などはひどいものでした。早替りにキャーキャー言う段階のお客には結構なんでしょうけど、芝居として見に来た者にとっては開いた口がふさがらない。満祐も、仁木も、与右衛門も、皆同じ。しかもそこにあるのは満祐でも仁木でも与右衛門でもなく、猿之助なんです。「伊達の十役」という「芝居」ではなく、猿之助の「ショー」が目の前で展開されているにすぎない。

 先ほど、「この『慙紅葉汗顔見勢』は、猿之助と脚本家の奈河彰輔が作り直したもので、はっきり言って新作です」と言いましたが、全編新作ということではありません。「滑川土橋」は『伊達競阿国戯場』に残っている場ですし(「薫樹累物語」という外題で昨年6月に宗十郎が演じたものは、以前FS通信でも取り上げました)、「足利家奥殿の場」は『伽羅先代萩』の「御殿」として歌右衛門が当たり役にしていた場面で、あまりにも有名。つまり、これらは元々台本が昔からあり、長年洗練されてきた演出が残っていて、内容的にもコクのある場面(特に「御殿」は義太夫が入る)です。

 澤潟屋はお客に筋がわかりやすくなるように、また早替りの都合もあって、元の話を随分いじっています。ところがこの滑川土橋は、高尾・累・与右衛門の因果を見せるところですから、あまり大胆なカットはできない。しかしそこに至るまでの場面を大幅にいじって、与右衛門の場合は自分が子の年月日刻の生まれであるところにスポットを当てている。高尾は重要な役ですが、猿之助が傾城姿に早変わりする所を眼目にしている(殿様→傾城→物乞い坊主という替わり方はお客をアッと言わせますもの)。累はただの道案内役に成り下がってしまっていて、単に十役そろえるために累を出したとしか思えないのですよ。つまり、この三人の因果話が前の場面で書き込まれていない(『伊達競阿国戯場』ではちゃんと書き込まれてます)。そこへ突然高尾の亡霊が出てきたり、それが累に憑依して顔半分がただれ、びっこになったとしても、それは1つのお化け屋敷的スペクタクルにすぎず、与右衛門や二人の姉妹の悲劇性につながって行くはずもないのです。

 「御殿」になると、いかに早替りが好きなお客でも、芝居として成り立っていなければ見られたもののではない。政岡という役は、単に早替りの中の一つとして扱うことは不可能です(実際この60分間は一度も別の役に替わりませんし、替われません)。スペクタクルの要素は皆無ですし、猿之助が自分勝手な演じ方をすれば破綻してしまいます。しかも「伊達の十役」の中で唯一義太夫の入る場面で、セリフ回しや所作をきっちりさせ、そこに政岡の心が映らないといけません。もうこうなると猿之助は手も足も出ないのよ。口跡が悪くて義太夫にのらず、しかも肚が薄いから情味もなければ強さもない。「花組芝居」の芝居に毛が3本はえた程度。猿之助の一座はきっちりとしたコクのある義太夫狂言を平素稽古していないから、「御殿」に出ている政岡以外の役者も全部ダメ。かろうじて宗十郎の八汐でやや持ちこたえていたかな、という感じ。

 次の「問註所」になると、猿之助も俄然良くなります。細川勝元というのは気分のいいスカッとする役で、テレビドラマで言えば「大岡越前」を想像して下さい。キツイことを言っていても情味があって慈悲深い、そして悪はとことんまで懲らしめる。この場も『伽羅先代萩』でよく上演されるものですが、勝元のセリフは実によく書けている。百年以上もかかって洗い上げられたセリフはやはり違いますね。このさわやかな勝元という役を、猿之助は本当にさわやかに演じていました。しかし勝元は演技がひと通りの水準に達していれば、誰がやってもよくなる役です。猿之助だからすばらしかったわけではない。

 それに、早替りの都合上、猿之助はこの問註所の筋を少し変えています。『伽羅先代萩』では「対決」という名前の場なのですが、本当はここでは仁木がやりこめられるのです。ところが今回は仁木と勝元は両方とも猿之助がやっているのですから、同時には出られない。したがって山名館で鬼貫がやりこめられることにして、仁木はその後問註所の白洲(『伽羅先代萩』では「刃傷」の場)ですべての裁きが終わった後に出てきて外記に刃傷に及ぶ筋に変えてます。大変な妖術使いで、「床下」では鼠に化けて連判状を奪い返したほどの仁木が、問註所ではいきなり白洲に座らされて結局普通の人間のように裁かれてしまうのはとっても変でしょ。『伽羅先代萩』を見ていてもそこに違和感があります。そういう意味ではこの「伊達の十役」の演出の方がいいのかもしれませんけど、早替りの都合で犠牲になっているものが猿之助の芝居にはかなりあります。さっき述べた高尾・累・与右衛門の件などは典型。そこがまた、澤潟屋の芝居を「芝居」として見られない原因にもなっているわけ。

 「滑川土橋」と「御殿」が失敗で、「問註所」が成功していることこそ、澤潟屋の芝居の欠点をよく表していると思います。「3つのS」で成功した猿之助は、その「3つのS」のために感動を生まない芝居となっているのです。「猿之助歌舞伎」は初見の時は楽しいのですが、二度見たいとは思わない。二度目はテレビ中継でたくさんです。

 何がいけないのでしょう。ここまで書くと、私がさもケレン的演出が嫌いであるかのように思われるかも知れませんが、別にそういうことではありません。早替りや宙乗りのある芝居は「猿之助歌舞伎」ばかりではなく、『お染の七役』『怪談乳房榎』など他にもありますし、故延若や故国太郎・玉三郎・勘九郎などが挑戦してます。でも芝居というのは早替りを見せることが目的ではありません。眼目はやはりそこに展開されるドラマですし、古今東西変わることのない普遍の「人間のあり方」を通して感動を与えることだと思うのです。猿之助がそういうものを目指してないとは言いませんけど、演技の中にそれが全く見えてきませんし、実際お客を沸かせることはあっても心の底から感動させることはありません。『お染の七役』も、早替りに重点を置くと芝居が水っぽくなります。そう、「猿之助歌舞伎」はどこか水っぽいんです。故延若が若い頃『怪談乳房榎』を上演したとき、父親の二世延若から言われたそうです。「おまえの早替りは確かに早い。でも人間が変わっていない。単におまえ自身が別の衣装着て出てきただけや」と。演技って、昔も今も変わらないものがあるんじゃないでしょうか。

 二兎社という劇団が昔演じた「カズオ」という芝居があります。女優の二人芝居で、加藤茶のようなハゲヅラをかぶったオヤジから、おばさん・おばあさん・ランドセルをしょった小学生などいろいろに替わり、しかもタイトルにもなっている「カズオ」は無対象で演じていました。少なくとも早替りをとったら何も残らない芝居ではなかったし、一つの芝居として「感動を生む」ものでもありました。歌舞伎と新劇は全く異なるものですし、単純な比較などしてはいけないかもしれません。でも、同じ「演劇」だと思うのですが。

 澤潟屋のやっていることは評価します。でも私はキライです。どうしてキライなのかを長々と述べさせていただきました。

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