ウェディング・バンケット 喜宴 THE WEDDING BANQUET
(1993年/台湾=米/109分) 

【製作・監督・脚本】 アン・リー
【製作】 テッド・ホープ/ジェームズ・シェイマス
【脚本】  ニール・フェン/ジェームズ・シェイマス
【撮影】 ジョング・リン
【音楽】  メイダー

【出演】 ウィンストン・チャオ/ミッチェル・リヒテンシュタイン/メイ・チン
ロン・ション/グア・アーレイ

 この映画が面白いのは、登場人物の間で絶えず「秘密と嘘」が繰り広げられているとこかな。

 親に対して、自分がゲイであり、アメリカ人のボーイフレンドと同棲していること、仕方なしに「偽装結婚」することを隠している主人公。成り行きでセックスをして相手を妊娠させたことをボーイフレンドに隠していたこと、主人公が母親にカミングアウトしたことをボーイフレンドと女の子が素知らぬふりをすること、英語が通じないと思っていた父親が実は理解できて、全ての事情を知ったけど、そのことを黙っているようにボーイフレンドに頼んだこと。そして、父親と母親はそれぞれ自分の息子がゲイである、ということがわかったんだけど、お互い隠している(相手を気づかうため)いること。

 と実に様々な「秘密と嘘」が重複していくんだけど、登場人物の誰一人とてその全てを知るわけではない。結局、そうした「秘密と嘘」を全て知っているのは観客のみ、ということになる。こうした構成のウマさと、アン・リー監督の機知に富んだ演出により、この映画は類まれな傑作になったのでした。
 
 この映画もまた一種のファンタジーなんだけど、どこかリアリティを感じさせるのは、人間関係への視点かな、と思う。

 結局、この映画は、例え血縁関係や強いパートナーシップで結ばれていようとも、人間とは一人であり、孤独な存在であること。それゆえにみんな「関係性」を求めるんだけど、そうした「関係性」もまた、素晴しく、強靭な面もあるけれど、また同時に脆弱でもろいものであること、をかなりさめた視点で描いていることかもしれない。

 そうした脆弱なものだからこそ、ペアルックを着たり、時間や場所などいろいろなものを共有しようとしたり、同棲したり、結婚して、子供を作って、家族を持つ、という目に見える「関係」を求めるのかもね。

 最近アメリカやヨーロッパなどで、同性愛カップルに対し、異性愛カップルと同様の法的権利の容認や、「結婚」の認知を求める動きが話題になっているけど、それも結局はお互いの「関係」を目に見える形にすることで、その脆さをカバーしようとするのかな、とも思ってしまった(もちろん現実的な問題として社会保障や福祉を求める、というのもあるけれど)。
  
 おっと、話が脱線してしまったけど、旧来の「家族」と新しい形の「家族」を対照化させて、「家族」の概念を突き崩しているけれど、決して否定的に描いているわけではなく、どこか愛情を感じさせるところがまたいいのかも。

 つまりここにあるのは、アジア(儒教?)的な「家族」と、アメリカ的な「個人」を対照的に描きつつも、そのどちらに対しても懐疑的な視点が貫かれているとこかもしれません(ステレオタイプな見方かもしれないけれど)。

 この映画は最後、慣習的な「家族」を一人息子に求める親と、独立した個人であるゲイの息子が作り出す「パートナーシップ」、そして偶然にできた子供を一人で育てる決心をした女性、という、様々な「家族」を提示させて幕を閉じる。

 一見ハッピーエンドのように見えるけれど、どこかほろ苦い、皮肉のようなものが後味として残る。単純な「家族/パートナーシップ礼賛映画」に終わらず、ファンタジーのなかに現実味というナイフがサッと切り裂いていったようなかんじ。それが、この映画にある種のリアリティと普遍性をもたらしたのかもしれない。大好きな映画です。

                            北条貴志

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