queer de pon
 
(2001/5/19更新)

American 90's Directors 
〜アメリカの若手監督とそのクィア表現〜

仮に90年代のアメリカ映画を代表する存在を選べ、と言われたら、好き嫌いを問わず一番目にあげられるのはクエンティン・タラティーノだろうか。80年代にジム・ジャームッシュやスパイク・リーが築いた「メジャーなインディペンデント映画」という枠をより大きく広げた功績は大きい。「メジャーなインディペンデント映画」は、従 来インディー作家が好みつつも、ハリウッド映画が避けてきた題材や作風を、メジャーなシーンに導入させ、より異なる表現へと進化させていった。そうした流れのなかでの大きな特徴の一つとしては、映画の中でのセクシュアル・マイノリティの存在が顕著になっていった、ということだろうか。それまでどちらかというと腫れ物を触るかのごとき描写 だったのが、より自然に、多様な描きかたへと変わっていったのだっ た。もちろんその背景には、L&Gムーブメントや産業、メディアの成長や、「クィア映画」の命名とその発展などがあげられるだろう。

ここにあげた4本は全てセクシュアル・マイノリティの登場人物を様々な形で捉え、 劇中に登場させている。しかし、作品世界や作風は全然異なるし、監督がゲイやレズ ビアンというわけでもない。そう、セクシュアル・マイノリティを描くのは、セクシュアル・マイノリティの監督の専売特許ではなくなってきたのだ。もちろん他にもいろいろな作品があるし、アジア・ヨーロッパへと目を移せば、もっともっとたくさんの多様な表現に挑戦したクィア映画がある。しかし、今回はタランティーノ以後の4本を取り上げてみました。あとはみなさんの中で、映画における新しいクィアな表現を発見していってください。


マルコヴィッチの穴
BEING JOHN MALKOVICH
(1999)
監督:スパイク・ジョーンズ (第1回監督作品)
出演:ジョン・キューザック/キャメロン・ディアス /キャスリーン・キーナー /ジョン・マルコヴィッチ
ベネチア映画祭 国際批評家連盟賞受賞
配給:アスミック・エース

■ マルコヴィッチの穴 BEING JOHN MALKOVICH(1999)

うーん…やはり一筋縄ではいかない映画だわ。「なぜ天井が低いのか」「なぜ壁に穴があいてるのか」「なぜ穴がジョン・マルコヴィッチの頭の中につながってるの か」「そもそもなぜマルコヴィッチなのか」と…まあ、そういう不条理な設定は、それがウリの映画だとわかってるから、そんなにはびっくりしないのだ。でも、それだけと思って見始めると、途端に足をすくわれる。

主人公は冴えない人形使いのクレイグ(ジョン・キューザック)。才能はあるけどオタクで偏屈、そのくせ名声に恋焦がれている。一方、彼に体を「占領」されてしまうのがジョン・マルコヴィッチ(マルコヴィッチそのまんまご本人)。彼は、名声には不自由していないものの、心の底にはやっぱりたくさんのトラウマを抱えている。そんなネクラの二人とは対照的に、カッとんでキレたキャラなのが、男たちを手玉 にとる美女マキシン(キャサリン・キーナー)。この3人に、一見地味なクレイグの妻ロッテ(キャメロン・ディアス)を加えて、4人の関係を軸にストーリーが進んでいく 。

しかし! こちらの度肝を、真っ先に抜いてくれたのはロッテだった。マルコヴィッ チになって…つまり、男の体になってみて「私はトランスセクシュアルだったの!」 と気づいてしまうロッテ(*1)。マキシン(そう、彼女はNYの街がよく似合う、 キャリア系の一見イマ風のいい女)に、ぞっこん惚れちゃうロッテ。マルコヴィッチの体を借りて、マキシンとの逢引きにハマるロッテ。彼女…じゃなくて彼か…をオカシな 人物と思うなかれ。個人的な意見だけど、いわゆる性同一性障害云々の文脈でいう「 性別の違和感」ってのも、突き詰めていえばこういう話だと思っている。けっこう鋭いんじゃないかな…これって。

まあ、ロッテがトランスセクシュアルなのか、それともレズビアンなのかは実際よくわかんないところではあるのだが、まあ、どっちでもいいんじゃない? レズビアンだと思って見ても、悪い気はしない。とってもひねくれた映画と評判の『マルコヴィッチの穴』だけど、その割にとっても素直に見られるのは、心と体、愛とセックスっていったあたりの本質を、ズバリ突いてるからじゃないかな…。この辺りが、そういう話を真正面 から描いているように見えながら、どこか「あれぇ?」って感じの『ボ ーイズ・ドント・クライ』とは対照的だと思う(*2)。

さて、一方で、ロッテを裏切り、愛よりも富を選ぶマキシン…。この恋の結末がどうなるかって話は言わないことにしよう。でも登場人物たちが辿る運命と皮肉な結末は 、そのまま人間の業(ごう)を巡る問いかけのようで、なかなかにツボを刺激してくれるのだ。あ、人間だけじゃなくてサルもね。

*1 ほかの映画でもよくあるんだけど、こういう場合に字幕でtranssexualを「性倒錯」と訳すのは勘弁して欲しいなあ…。
*2 唐突な比較だけど、前回書いたレビューが『ボーイズ・ドント・クライ』だった ので。

(野宮亜紀) ※第9回映画祭上映作品『ブランドン・ティーナ・ストーリー』の翻訳を担当。

『ボーイズ・ドント・クライ』レビューへgo!!

オフィシャルホ−ムページ
日本   http://www.mal-ana.com/
イギリス http://www.spithead.com/
アメリカ http://www.beingjohnmalkovich.com/

 

ハピネス
HAPPINESS
(1998)
監督:トッド・ソロンズ (「ウェルカム・ドールハウス」)
出演:ジェーン・アダムス /フィリップ・シーモア・ホフマン/ララ・フリン・ボイル/ディラン・ベイカー /ベン・ギャザラ
カンヌ映画祭 国際批評家連盟賞受賞
配給:シネカノン

■ ハピネス
「幾多の不幸をやり過ごし,今日も生きてゆくのさ」

少年愛は悲しい。自分の性欲を満たすためには犯罪を犯さねばならないのだから。マ イノリティの人権が認められはじめてきた現代においても,少年愛や露出,痴漢など ,少々マージナルな性欲を持つ人々に対して,世間は厳しい。“気持ち悪〜い”という反応が,一貫した世論を形成してしまっている感がある。しかし私は,数年前に「 児童ポルノ禁止法案」に関する集会にて“被写体が実在する写 真について禁止するのはしょうがないが,被害者のいないマンガまで禁止しないでくれ”との悲痛な訴えを彼らがしているのを見て,認識を新たにしたのであった。少年愛は“気持ち悪い人でなし”などではなく,きっと多くは悲哀を背負ったいい人たちなのかもしれない。

この「ハピネス」に登場する精神科医のビルも,そんな悲しい少年愛な人間の1人である。彼は,妻と幸せな家庭を築き,子どもにも慕われている理想的なマイホームパ パである。ほんとにいい人なのだ。私がすばらしいと思ったのは,思春期を迎えた息子ビリーとのやり取り。息子に射精について尋ねられ,何もごまかすこともなく率直に息子の悩みを受け止め励ます父親の対応は,まさにパーフェクトとしか言いようが ない。“大丈夫,いつかイケるさ You'll come, one day.”

しかしこんなすばらしいお父さんのただ1つ困った点が,少年愛であった。こんな立派な人間が息子の友人2人をレイプするまでに至るというのは,想像を絶する内的な衝動があったのであろう。見上げたことに,レイプについても息子と率直に話し合う 。この会話がまた感動的である。“いや 犯したんだ”“どんな感じがした”“… すばらしかった”“ボクを犯したいと思う?”“いや オナニーで我慢する”(泣)

ただいくら止められない衝動とは言っても,悲しいことに,近代社会においては他者の人権を侵害すると,やはりそれは犯罪である。悲哀だ。こうして立派なお父さんは警察に連れて行かれるのであった。

この少年愛のエピソードは突出したものであるが,その他にも,イタ電&オナニーが日課の男,マイナス思考で不幸を引き寄せる結婚できない女,小説のためにレイプされたいと願う小説家の女,など都会的な寂しさが漂う登場人物のエピソードが散りばめられていく。レイプされてから,その犯人を殺してしまい,バラバラにして少しずつ捨てている肥満女は,一部のゲイにおおウケだった殺人主婦ドラマ「OUT」も真っ青である。

ただこの映画のうまいところは,これだけの生々しい不幸がてんこ盛りなのに,じっとりとした暗さがあんまり感じられないところである。概してみんな,突然の不幸にも誰かのサポートを得て何とかやり過ごしていくのである。淡いけれどさりげなく暖かい都会的な人間関係を感じた。それぞれの孤独や不幸を背負いながら,みんな自分なりにがんばって生きているのである。そんな現代的でアーバンなテイストは人気の海外ドラマ「アリー・マイ・ラブ」にも通 じるところがある。“幸せ探し”系の歌が 時々挿入されるところも似ている。

ビデオ屋さんはこの映画を“ブラック・風刺”のジャンルのシールを貼っていたけれど,う〜ん,これって私はシリアスなヒューマン・ドラマだと思っているのですが… 。そして,こんなに人間の悲哀に満ちた映画「ハピネス」は,やっぱりアーバンなも ので,息子ビリーの“精通”によって,めでたくハッピーエンド(!)を迎えるのだ った。I...I came !

(川波 歩)

ハピネス オフィシャルホームページ アメリカ http://www.happinessthemovie.com/

 

チェイシング・エイミー
CHASING AMY
(1997)
監督:ケヴィン・スミス (「クラークス」「ドグマ」)
出演:ベン・アフレック /ジョーイ・ローレン・アダムス/ジェイソン・リー
インディペンデント・スピリット・アワード 脚本賞受賞
ゴールデン・グローブ賞主演女優賞ノミネート
配給:エース・ピクチャーズ

■ チェイシング・エイミー 

ボクはけっこう早くから自分が同性に対して恋愛感情や性欲を感じるということに気づいた。そしてその感情を肯定するために、「ゲイ」というアイデンティティーを必死の思いで築いてきたように思う。でも、「ゲイ」って一体なんだろう。同性しか愛せない人間のことだろうか。

「(一人の)異性を愛さなければならない」という無言の圧力がかかる社会の中で、 同性を愛してしまったがために、その圧力を押し返すために作り上げた「ゲイ」というアイデンティティー。それは、「同性を愛してもかまわないんだ」という自分に向けた肯定的なメッセージだったはずだ。でも、いつからか、「同性を愛さなければならない」という無言の圧力に変ってしまっていないだろうか。せっかく社会の枠から外れてもオッケーだと思えたのに、そのぶん自由になれたはずなのに、いつのまにか自分で自分を新たな枠に押し込めていないだろうか。

あらゆる人はマイノリティーであり、そのマイノリティーであるがゆえのアイデンティティーを作り上げて、「幻想のマジョリティー」に対して抵抗しつつ生きていなが ら、自分の属するカテゴリー以外の全てのマイノリティーに対して「偏見」――それ が優越感であれ、劣等感であれ――を持つのである。その意味であらゆる人はまた、 自分自身こそ「幻想のマジョリティー」の一部なのだ。

さて、「チェイシング・エイミー」。なかなかに絡まった映画である。ゲイ、レズビ アン、バイ、ストレート、ゲイであることを認められないホモフォビア。そんないろんな人間が集まった「マンガオタク」共同体内の恋愛劇。恋愛とは厄介なものである 。マイノリティーとマイノリティーの出会い。お互いを認めるためには、結局は自分 自身のアイデンティティーを解体するしかないからだ。「寛容」は外に向けられるも のではなく、自分自身に向けられるべきものだ。曖昧な自分自身を、わけのわからない感情を抱く自分自身を、寛容に受け入れることである。

それにしても、ベン・アフレック。こんなにさえない奴だったかなぁ。これは彼の演技が、役作りがうまいのか、あるいは「素」なのか、疑問の残るところである。それからジョーイ・ローレン・アダムズ。演技はうまいが歌はヘタッピ。全体的な映画の完成度はいまいちとしても、人間関係の、そして恋愛の機微を、アイロニーをこめて描いた脚本はピカイチのこの映画。こういう混沌とした関係を描き出せるのは現代アメリカの若い感性ならでは。全ての人に痛い映画でしょう。でも、やっぱり一番強いのは黒人のオネェさんなのだ。

(ato)

atoさんホームページ "colorful"
http://homepage1.nifty.com/atojp/

チェイシング・エイミ− オフィシャルホームページ
日本   http://www.asmik-ace.com/ChasingAmy/
アメリカ http://www.viewaskew.com/chasingamy/


マグノリア
MAGNOLIA
(1999)
監督:ポール・トーマス・アンダーソン(「ブギーナイツ」)
出演:トム・クルーズ/ジュリアン・ムーア/フィリップ・シーモア・ホフマン /ジェイソン・ロバーツ
ベルリン映画祭グランプリ受賞
ゴールデン・グローブ賞助演男優賞受賞
配給:日本へラルド映画

■マグノリア MAGNOLIA (1999)

かつてフランスの映画監督フランソワ・トリュフォーは、「新聞が一部あれば映画の脚本が数本書ける」と言っていたことがある。要はあの紙面 に埋め尽くされた様々な事件や事柄にはそれぞれ異なる因果 関係や歴史があり、掘り起こしていけばそれぞれ大きなドラマが存在するということだろうか。事故や医療過誤の犠牲になった人たち のことは、新聞ではその日の数行の記事で終わってしまうけれど、当人や周りの人からすれば一生背負わなくてはいけない大事だものね。

「マグノリア」はそうした新聞の三面記事のような事柄が映画の上で展開される。病に臥したTV業界の大物とその若い妻、そして彼に付き添う看護士、TVのクイズ番組で優勝を続ける天才少年と、ガンのため余命いくばもないその番組の司会者、かつてクイズ番組の天才少年として有名であったが、今はまともな仕事にすらありつけないゲイの男、文字通 り男根主義的な発想を気弱な男たちに吹き込むセックス教の「教祖 (?)」など。現代のカリフォルニアで生きるという以外は、ほとんど共通 点のない (強いてあげれば「主人公」たちが殆ど全員白人というところ。カリフォルニアのような土地で、白人だけ、というのはかえって珍しいけどね)彼らの人生のほんの断片 、しかし彼らの一生を左右させる事柄が描かれていく。

この映画を観てすぐさま想起させるのが、ロバート・アルトマンとレイモンド・カー ヴァーだろう。複数の人間の短い人生の断片を集約して描くことを得意とした映画作 家と、これまた大事件の起こらない平凡な人生の非凡な瞬間を捉えたミニマリズム作家。カーヴァーの短編をアルトマンが映画化した「ショート・カット」という作品があるけれど、なるほど、その2人の作品に比べると「マグノリア」は甘いかもしれない。深奥をえぐるようでいて、結局は表層的な描写 に留まっている、というか。しかし、決して歴史に残る大事件ではないけれど、その事件の当事者にとってはその生き様すら左右しかねない出来事。そして、同じ時間を過ごしながら、違う場所のどこかで違った人生がある、というごく当たり前のことではあるけど、煩雑な日常生活の中では忘れがちな現実が、この映画には描かれていると思う。

そしてその異なる人生の幾つかを、TV番組や雑誌広告、そして原因不明の「天災(? )」などが次第に束ねていく。短いショットの連続からドラマ全体の緊張感を高めていく構成力は実にお見事。また。エイミー・マンの曲をモチーフに、登場人物全員の人生の断片が集約されていくシーンは、「ウエストサイド物語」の「トゥナイト」を想起させる。このシーンは「ウエストサイド物語」同様に、クライマックスを前に全てが一つの方向へ向かいだすプレリュードになっていくのだ。

話の骨格としては脆弱なところもあるけれど、それを補って余りあるのが役者の力量 。病死寸前の夫を前にして錯乱する若妻ジュリアン・ムーア、その看護士であるフィ リップ・シーモア・ホフマンなどなど、子役に至るまで誰もが印象深く、素晴らしい 。ナショナル・ボード・オブ・レビューをはじめ、幾つかの賞で出演者全員に賞を与えたところもあるけれど、これは納得できる。そのなかでも意外な驚きはトム・クルーズかもね。ジャーナリストに虚偽の経歴を問いただされるシーンは、もの凄い迫力がある。いやー、この人って役者としてもそれなりにいいのねー、と妙に感心。

したがって、僕にとって少々残念だったのは、ラストがやや甘いということ。あれ以外まとめようがない、ということはわかるけれども、あれだけ描きながら安易な結末という気もした。でもその甘さがあったからこそ、あそこまで支持されたのかもしれない。人は三面 記事に書かれた事故や悲劇に一瞬の同情はするけれど、自分の身にふりかからないかぎり本気にはとらない。この映画には人生の辛酸をどこか他人事のよ うに眺める視点があるから、どこかに「救い」を用意したのかもしれない。でも人生に本当の救いなんてあるのだろうか。

(北条貴志)

マグノリア オフィシャルホームページ
日本   http://www.magnoliamovie.com/japan/
アメリカ http://www.magnoliamovie.com/

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