1999年に劇場公開されたゲイ・ポルノ映画。ピンク映画専門ミニコミ誌「PG」のベ
ストテンで、その年の第4位という好評価を受けている作品だ。60分という上映時間
は一般的な劇場映画に比べると短いし、ただでさえ短い貴重な上映時間を、ラブシー
ンに取られてしまうというポルノ映画ならではの制約もある。しかしこの映画は、思春期に自らのセクシュアリティに思い悩む高校生の気持ちを過不足なく描き出した作
品として見応えがあるし、登場人物の配置や関係性の描写などもバランスがよく、観
ていて楽しい気分にさせられる。
大人顔負けの性知識を持ち、体もすっかり一人前なのに、実際の経験が乏しい高校
生ぐらいの年齢は、誰しも自分自身のセクシュアリティについて悩むものだと思う。
それは男も女も変わらないだろう。自分にはなぜ恋人ができないのだろうかと思ったり、自分は人と違って異常なんじゃないかと考えたりする。急激な身体の変化に驚いて、性体験もないのに性病にかかったのではないかと深刻に悩む人もいれば、自分に彼女(あるいは彼氏)ができないのは自分が同性愛だからではないかと考えたりもする。こうした悩みをまったく経験せずに大人になったという人がいたら、きっとその
人は“バカ”なのです。思春期に「自分は異常だ」と思わなかった人こそ、たぶん人
間として何らかの欠陥を持っているのです。
この映画の主人公タダシは17歳の高校2年生。彼は友人コータを密かに慕っているのだが、そんな気持ちが相手に受け入れられないことは百も承知している。そもそも彼は「自分が同性愛者である」事実に自分自身で狼狽し、自己嫌悪に陥っているほどなのだ。しかし強い気持ちは抑えがたく、タダシのコータへの気持ちはそれとなく相手にも伝わる。だがコータは「俺はホモじゃないから」と言い放ってタダシを拒絶してしまうのだ。世界中から自分ひとりが孤立してしまったような孤独感と絶望感を味わうタダシは、たまたま電車の中で見かけたゲイのカップルを無意識のうちに追い始める……。
映画はタダシが自分自身のセクシュアリティを受け入れ、思春期の悩みから解放されるまでを描いている。自分がゲイであることを周囲にカミングアウトし、恋人もで
きて最後はハッピーエンド。しかしこの結末はまるきりの付け足しであって、映画は彼が「僕はホモだ」とコータに告白するところで実質的に終わっている。タダシにゲイの恋人ができるエピソードはほのめかす程度にしておいた方がよかったと思うが、
ここにラブシーンを入れてしまうのは“ポルノ映画”という枠組みの限界かもしれない。映画の中のさまざまなラブシーンに僕はほとんど違和感を持たなかったが、タダシと恋人が草原で戯れる最後のシークエンスだけは不要だと感じた。
主人公タダシはずっと悩んで暗い顔をしているせいか魅力に欠ける。映画を魅力的にしているのは、ヒロキとシンジのカップルや、その友人ケーゴの存在が大きい。特
にケーゴが登場すると、画面がパッと明るくなる。
(服部弘一郎)
映画瓦版
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