queer de pon
  リプリー THE TALENTED MR. RIPLEY(1999)

リプリー 監督:アンソニー・ミンゲラ
出演:マット・デイモン、ジュード・ロウ、グウィネス・パルトロウ、ケイト・ブラ ンシェットー

富豪グリーンリーフ夫妻から息子を連れ戻してほしいとの依頼を受け、イタリアに渡航した青年トム・リプリー。彼を待っていたのは美しき放蕩息子、ディッキーだった 。物珍しげにトムを迎え入れたディッキーと、彼の恋人マージのそば近く暮らすうち、トムはディッキーに憧れるようになる。しかしやがてディッキーはトムを疎ましく思うようになり、冷たく突きはなそうとするが…。
パトリシア・ハイスミスの原作を、「イングリッシュ・ペイシェント」のアンソニー ・ミンゲラが若いスター俳優を起用し映画化。1959年には、ルネ・クレマンが「太陽 がいっぱい」というタイトルで映画化している。後者はニーノ・ロータの甘美なメロ ディと共に、今なお人気が高い。

リプリー オフィシャルサイト
アメリカ http://www.talentedmrripley.com/
フランス http://www.mr-ripley.com/
オランダ http://www.ripley.nl/

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デューク・エリントン、もしくはガブリエル・ヤレドとニーノ・ロータ、59年代と90年代、アメリカ映画とフランス映画。

同じ原作を基にしたとしても、「太陽がいっぱい」と「リプリー」は全く性質の異なる作品として存在する。そしてこの2つの作品を際立てた最も大きな違いとは、作中のセクシャリティの扱いかただろうか。ここに同じ出生を共にしながらも、全く異なる性格を持った子供として成長した作品の違いがあると思う。監督のアンソニー・ミンゲラはこの作品を映画化する際に、「太陽がいっぱい」のことはほとんど意識をしなかったというが、「リプリー」を観る限りにおいては、その影響下をなんとか逃れようと懸命になっているようにもみえた。いや、むしろその違いを際立たせるために、あえて「太陽がいっぱい」においてはほのめかした程度の描写 だった同性愛的要素を、前面に押し出したのではないだろうか。

「リプリー」は、イタリアでの現地ロケをフル活用したスケールの大きい映像と現代的な感覚、スター俳優の競演と、それなりに見ごたえのある要素を含んだ作品になっているにも関わらず、どこか平坦で浅はかな印象も受ける。それはまず1つには人物描写 の浅はかさにあるだろう。同じミンゲラが監督した「イングリッシュ・ペイシェ ント」もそうだったが、深みがあり多くの要素を含んだ重層な原作の表層的な部分を掬い取りドラマ化し、現地ロケの映像をふんだんに使う、というパターンを今回も使 ってはいるが、それらは結果として「観光映画」としては十分見ごたえのあるものの、ドラマとしてはとても希薄で手ごたえのないものになってしまった。

また「リプリー」は同性愛的要素を前面に押し出したゆえに、トムの殺人に至る動機が単なる痴話喧嘩のようになってしまい、「太陽がいっぱい」のなかにあった、社会階級の差、人間の奥底に潜む憎悪や複雑な恋愛感情、狡猾な企み、といった要素が極めて平板な形でした現れておらず、観客に対して今ひとつ迫るものに欠ける。流麗な光景は確かに魅力的だが、それが「太陽がいっぱい」のなかにあった、映像と登場人物の感情の流れが呼応するという効果 からはほど遠い。

出演者にも問題はあるだろう。確かに旬のスターを揃える、というマーケティング的発想からすればこのキャスティングは魅力的だが、マット・デイモンはあの役の表現するには深みにも繊細さにも欠けるし、ましてや殺人を犯す影の部分がとても希薄になっている。グヴィネス・パルトロウにいたっては、マージというキャラクターを演 じる、というよりは、ただそこにいるだけで終わっている。主演の二人がこの状態だから、自然と脇を固めたジュード・ロウと、狂言回し的な役割のケイト・ブランシェットの存在が際立つことになる。ジュード・ロウこそ、トム・リプリーを演じるに最適な役者だったのではないだろうか。

「太陽がいっぱい」は抹殺したと思い込んだ相手に最後まで付きまとわられた、残酷な寓話的要素が生かされていたが、「リプリー」はその「太陽といっぱい」との差を際立たせるために、あえて大きな違いを設定したが、かえって映画としての深みに踏み込むことができなかった。それはさながらディッキーの亡霊に最後まで翻弄される ことになったトム・リプリーの姿のようにも思えてならない。

(北条貴志)


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ジュード・ロウ。このイギリス人俳優の魅力を一言で表現するとすれば、
目からビ〜ム!
だろう(…と思う。。。)。ジュード・ロウは強力な瞳の持ち主だ。その瞳で見つめられたが最後、男でも女でも彼に引き付けられずにいられない。目からビ〜〜ム! 

ジュード・ロウの出演作をチェックしていくと、大きな共通点があることがわかる。
(その1)いつでもどこでも1人でキラキラ王子様系    …ま、華があるってことです。
(その2)ゲイ役、または、クィア映画の出演が多い。    …「オスカー・ワイルド」(1997)「真夜中のサバナ」(1997)ではゲイの役を演じたし、「ガタカ」(1997)は、クィアテイストな1本。
(その3)すぐ死ぬ。   …ジュード・ロウ本人の葬式から始まる「ファイナル・カット」(1998)を筆頭に、「真夜中のサバナ」(1997)では、ジュード扮する男娼殺害事件が、物語のメインとなる。映画デビュー作の「ショッピング」(1994)や「ガタカ」(1997)、「クロコダイ ルの涙」(1998)でも、やっぱり死ぬ。
う〜ん。ジュード・ロウって、折れたら枯れる1輪の薔薇なんだね。

以上のことを頭に入れて、映画を観ると、「リプリー」(1999)はすべての条件を満たしている正真正銘のジュード・ロウ映画だと言うことがわかる。同性愛映画としての側面 を持つ「リプリー」(*その2)のジュード・ロウは、ジミー大西にしか見えないマット・デイモンと、映倫コードぎりぎりの顔面 ミイラ、グウィネス・パルトロウなど共演者に恵まれ、1人でキラキラ輝いている(*その1)。これでは、オスカー・ノミネートも当たり前である。で、「太陽がいっぱい」(1960)同様、途中でジミー 大西に撲殺されて、死ぬ(*その3)。映画、まだ、1時間以上、残ってるんですけ ど。。。。

さて、ここで一つの疑問。「太陽がいっぱい」でリプリーを演じたのは、元祖「目からビ〜ム」俳優、アラン・ドロン。でも、「リプリー」でタイトルロールを演じたのは、同じ系統のジュード・ロウではなく、マット・デイモンだった。ジュードが演じたのは、リプリーが思いを馳せる富豪の坊ちゃんディッキー役。「太陽がいっぱい」 でこの役を演じたのはモーリス・ロネ。ルイ・マルの「死刑台のエレベーター 」(1957)や「鬼火」(1963)で、半分、死人のような主人公を演じた俳優である。リメイク「リプリー」のディッキー役における、陰(ロネ)から光(ジュード)への転換は、何を意味するのか。う〜ん、わから〜ん! 難しいことを考えるのはよそう。要は、こういうことである。

「リプリー」が、21世紀的観点で、「太陽がいっぱい」よりも同性愛的傾向を強くして製作された時、もし、リプリー役をジュード・ロウが演じ、デイモンがディッキーを演じたとする。確かに、ジュード効果 で映画は最後の最後までキラキラ輝き続けるかもしれない。でも、少し、考えてみよう。

王子様ジュード・ロウがマット・デイモンに惚れるか? 

…そんなわけないじゃん! そんなの説得力0である。やっぱり、ジュード・ロウは 、キラキラ輝いて、場をさらったら、とっとと退場するのが賢明なのかもしれない。 これにて、一件落着(…ん?)。

ゲイ受けする役柄を好んで演じるジュード・ロウだけど、実は、奥さんがいたりする 。しかも、子持ちである! そして、誰も指摘はしないけれど、20代後半にして、 あの額の後退ぶり(汗)。新作「A.I.」の特殊メイク姿にギャッと思った今(さすがスピルバーグ。悪趣味である)、果 たして、ジュードのキラキラ王子様系はいつまで 持続するのか、1ファンとして不安は募るばかりである。

(michi-ta)


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パトリシア・ハイスミスの「リプリー」を読んだのは、再映画化を知り、そのことに関する記事がすべて「原作により忠実に、同性愛の部分を描いた」という文脈で語られていたからである。 それまではハイスミスの名前もミステリー作家としての評判も知っていたにもかかわらず、彼女の作品も読んだことはなかった。レズビアンだと知っていたら絶対に読んでいたのに、だれも教えてくれなかったのだ。

原作を読み始めてすぐ、不安になった。こんないいかげんでどうしようもないちんけ な詐欺師の物語を、一体だれが喜ぶのだろう。小ずるい頭を働かせて、数ドル単位 でだまし取った金で糊口をしのぐ、それが原作のトム・リプリーだ。 しかも始末に負えないことに、彼の自身に対する評価は「世間の人間とくらべれば、自分ほど人の好い、心のきれいな人間はいない」ときたもんだ。救いようがないにもほどがある。

ところが読み進めていくうちに、ワタシはこの物語の虜になった。それは決してリプ リーが「心のきれいな人間」だと分かったからではない。彼のどうしようもないまで の自己中心的な性格に、暗く惹かれていくのだ。 それは、モーリス・ルブランの「怪盗紳士」に夢中になったときと似ている。「頭がよくてダンディ」だと思っていたルパンが、なんだか間抜けでどうしようもなく女に弱い男だと知ってなお、ワタシは惹かれたものだった。

映画を見て、ワタシの不安は杞憂だったことが分かった。映画の中のトム・リプリーは「救いようのないヤツ」ではなかったのだ。 だれよりも心がきれいだとは言えないまでも、少なくともそのことを恥じている。法に触れるような生き方もしてはいない、どこにでもいる小市民だ。 それが原作と映画のもっとも違う点であり、残念ながら原作に比べて映画に魅力が乏しい理由でもあるだろう。

映画のなかで、人物像に魅力がないという点でリプリー以上に甚だしいのはマージで ある。南イタリアの陽光よりもピラミッドの中で灯すたいまつの明かりが似合うようなパルトロウの容姿はともかくとして、映画の中のマージは洞察力に欠け、リプリーからディッキーを守らなければならないという危機感もほとんど見られない。 彼女の書く小説は、ナルシシズムに充ちた退屈な物語に違いない。

などと、原作を引き合いに出してさんざんこき下ろしてしまったが、独立した作品としてみれば、そうひどいできではない。 かつて「ディカプリオとジャガイモを足して2で割ったような」といわれたマット・ デイモンのあかぬけなさは、コンプレックスの固まりのようなリプリーにぴったりだ し、ジュード・ロウのわがままな美形ぶりはプライドの陰に自信のなさを潜ませたディッキーに打ってつけだ。 これでミニー・ドライバーあたりがマージをやればいうことナシ、といったところか。

しかし、この映画を楽しむためには、決して原作を先に読んではいけない。映画を見た後に原作を読んだなら、きっとそのギャップに心を奪われ、「リプリー」シリーズ を買いあさってしまうに違いないだろう。

(満月)


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(2001/5/14更新)
   
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