queer de pon
 
(2001/7/15更新)
「ロバート・アルトマンの群像劇
〜一個人として描かれるセクシュアル・マイノリティ〜 」

1970年代に「M★A★S★H」(1970)や「ギャンブラー」(1972)、「ナッシュビル (1975)など傑作を連発したアメリカ映画界の鬼才ロバート・アルトマン。近年、「ザ・プレイヤー」(1990)や「ショート・カッツ」(1993)などで再評価を受けているが、半世紀近いキャリアを持つ彼の作品群の特徴として、彼特有の群像劇とその皮肉のきいた演出が挙げられる。群像劇というぐらいだから登場人物も多く、その中には、ゲイやレズビアンが登場する。70年代の「M★A★S★H」(1970)や「ロンググッドバイ」 (1973)「ウェディング」(1978)には同性愛の描写が見られるし、「三人の女」(1977) や「カンザス・シティ」(1995)など女たちの関係を描いたものもある。
今回は取り上げなかったが、注目すべきは、80年代の不遇時代の作品である。どれも舞台劇の映画化だが、「Come back to the 5 and Dime,Jimmy Dean,Jimmy Dean」 (1982・未公開)は、20年ぶりに同窓会で集まった女たちの物語。かつて女だった友人の1人が男性となって現れる。「ストリーマーズ/若き兵士達の物語」(1983)は、ベ トナム戦争時代、ベトナム行きを待つ兵舎の中で、ゲイ、黒人、田舎者など、さまざま兵士達が繰り広げる密室劇。「ニューヨーカーの青い鳥」(1986)は、フレンチレストランを舞台に、都市生活者の悩みを愉快に描いているが、同性愛のエピソードももちろん登場する。
今回は、彼の代表作の一つである「三人の女」と、パリ・コレを舞台に、ファッション業界を、豪華キャストを使って皮肉った「プレタポルテ」(1994)を紹介する。


三人の女 3 WOMEN
(1977)
出演:シェリー・デュバル、
シシー・スぺイシク
カンヌ映画祭主演女優賞受賞
(シェリー・デュバル)
配給:シネセゾン 
※ビデオ未発売
三人の女 
IMDb DATA
http://us.imdb.com/Title?0075612

3人の女、スゴイ映画です。何から何まで人を不安にさせる要素満載。ストーリーから何から人を迷わせようとしています。解釈を拒むとでも言えば良いのでしょうか…。 すべてが謎に満ちているが特に謎が解かれる訳でもないので余計にもストレスがたま ります。

まず配役。主役がシシー・スペイシクとシェリー・デュバル! 全くもってぶちきれているとしか言い様がない。だって「キャリー」と「シャイニング」なんだから。このキャストを見た瞬間、普通 の映画ではないと思うべきではないでしょうか。日本人でいうと岸田今日子と白石加代子と言うのがいい例えなのでは。特にシシー・スペイ シクが恐い。キャリーそのまんまだ。一体、当時幾つなんだかしらないがどう見ても中学生にしかみえない、しかも眉毛が無いし。いやあ怖い。

ストーリーは、わかりやすく言えば、アルトマン版「ルームメイト」だ。話はピンキー (シシー・スペイシク)が老人リハビリセンターに面接に行くところから始まる(ど う見ても家出中学生だ…)。なぜか採用され、たまたま近くにいた完璧主義者のミリー (シェリー・デュバル)は、彼女の教育係になる。ピンキーはミリーにまとわりつき、 ルームメイトを募集していたミリーと同居することに成功する。そして、ミリーの保険証番号を書き留めるは、日記は勝手に読むは、なかなかのストーカーぶりを発揮する。当然ミリーはそんなことには気づかない。

ある日、ミリーはパーティーを友達にドタキャンされて、それをピンキーのせいにしてしまう。その上、憂さ晴らしなのか、自宅にエドガーを連れて帰る(エドガーは3人目の女ウィリーの夫だ。ミリーとピンキーが住んでいるアパートのオーナーで、酒場ドッジ・シティの主人でもある)。そのことにショックを受けたピンキーは自殺を図るのだが、一命を取り留める。そして目が覚めたとき、ピンキーは、自分をミリーだと思い込んでしまう。自分の両親を知らないと言い張り、「自分はピンキーでなくミリーだ」と言う。煙草も酒もやるわ、エドガーを部屋に呼んで、遊ぶわ、ミリーの日記まで付けるようになる。

「ルームメイト」はだんだんそっくりさんになる話なのだが、この場合は全然違う。 確かにピンキーはミリーになっていくのだが、ミリーそのものになるのではない。彼女のダークな部分のみを取り込んでいるようなのだ。その証拠であるかのように、ピ ンキーが記憶喪失になってからのミリーは大変いい人である。ピンキーの世話をかいがいしくし、彼女の両親を田舎から呼んでやり、保険証のことで会社からピンキーが責められると、怒って会社を辞めてしまう。お気に入りの車を勝手に乗り回されても仕方がないと諦めてしまう。

ある晩、ピンキーは怖い夢を見て、突然元に戻ってしまう。当然、ミリーはそんなことに気がつくわけもない。その晩、エドガーが部屋にやってくる。しかも子供が産まれるというのにウィリーを一人にしているというので、二人は、酒場に向かう。ミリー はピンキーに「車で医者を呼んでこい」と言うが、元に戻った彼女にそんなことできるわけもなく、子供は死産してしまう。ミリーは、なにもしなかったピンキーをぶちのめす。

エピローグでは、エドガーは銃の事故で死んでおり、二人はドッジ・シティにいて、 ミリーはウィリーの代わりにそこを切り盛りし、ピンキーはミリー(しかも子供のミリー)になっており、ミリーのことをママと呼ぶ。さて、この場合ウィリーは誰なの だろう。やっぱりミリーなんだろうか・・・・。これは何の説明もないがすごく妙で す。  

話も十分意味不明なのだが、他にもその要素満点なものがある。一番妙なのは、美術と、色彩 。この映画の主要登場人物には、色が決まっている。ミリーは黄色マニア で着ているものから車、部屋のインテリアも全て黄色でコーディネイト。ピンキーは ピンク。住んでいる所はパープル・セージ・アパートメントの名の通 り紫色。なんか 気が狂いそうな色彩感覚である。もう一人の女ウィリーは生成のドレス。この人いつも絵を描いているのだが、趣味というにはあまりにのめり込み過ぎている。暇がある と常に何所かに絵を描いている。その絵というのが、彼女の内なる神秘的イメージ、 特に争いと憎悪を表象しているとでも言えばいいのか、妙な絵である。鱗や尻尾の生 えた人に似た生き物が争ってるといった感じの絵である。彼女妊娠しているのである が、胎教に悪そうだなあ、と映画ながら心配する。  
音楽も全編、人の不安をかき立てるような陰鬱なメロディーが続く。  

非常に精神的に消耗するので、気力体力共に充実させてから見ることをお勧めしま す。しかし、この映画、見た人にとってそれぞれ違った解釈を抱かせるのではないかと思います。様々な解釈を生み出すけれどどれも正解ではない、そういったところも含めてこの映画、傑作であると思います。

(papillon)


プレタポルテ 
READY TO WEAR
(PRET-A-PORTER) (1994)
出演:ジュリア・ロバーツ、 ティム・ロビンス、マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィ ア・ローレン、ローレン・バコール、ジャン=ピエール・カッセル、キム・ベイシン ガー、キアラ・マストロヤンニ、スティーブン・レイ、アヌーク・エーメ、リリ・テ イラー、ルパート・エヴェレット、テリー・ガー、ダニー・アイエロ、フォレスト・ ウィテカー、ロッシ・デ・パルマ、リチャード・E・グラント、リンダ・ハント、ト レイシー・ウルマン、サリー・ケラーマン、ミシェル・ブラン、ジャン・ロシュフォー ル、ウテ・レンパー、ライル・ラヴェット、シェール
日本配給:日本へラルド映画
プレタポルテ 
IMDb DATA
http://us.imdb.com/Title?0110907

ファッション界の内幕を描いたこの映画が撮影された当時、ある種の熱気と期待が高まっていた。実際のパリ・コレクションの会場に、ソフィア・ローレン、ローレン・ バコール、リンダ・ハント、トレイシー・ウルマン、ルパート・エヴェレットといっ た面々が最前列に座り、実際のショーと映画の撮影が同時進行していくというフィクションと現実がクロスしたスリリングな瞬間が生じた。CNNを始めとする衛星放送による現場中継が、ファッション業界をよりグローバルにしていき、それまでは匿名の存在とされたモデルがスーパーモデルという意味不明な呼称を与えられ、かつての女優や歌手といった存在にとって代わっていった時代。「マッシュ」や「ギャンブラー」 といった作品で知られる「名匠」がこれだけのスターを揃えてファッション業界を舞台に大掛かりに撮影していく。この映画はそうした時代の「モード」を捉えた華やか な傑作になるのでは、という大きな期待に包まれていたのだが・・・。  

しかし、この映画が公開されたとなると、それまでこの映画に大きな期待を抱き、 協力を惜しまなかったファッション業界は、手のひらを返したようにこの映画を一斉にこき下ろした。劇中実名入りであらわれる「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」、 「ニューヨーク・タイムス」といったメディアはこの映画がいかにファッション業界を誤って描写 した機知もなにもない作品であるか評し、劇中実名で登場したソニア・ リキエルに至っては映画公開後のショーで、「Je deteste le cinema(私は映画が大嫌い)」と胸にプリントされたニットを発表したくらいだ。  

とまあ、撮影当時の熱気とは裏腹に、ファッション業界に抹殺されるほど酷評された映画だが、作品そのものは今観てもとても面 白いし、ファッション業界への痛烈な風刺は強烈だ。いや、その風刺が強烈だったからこそ、そこまで批判されたのではないだろうか? 人間誰しも普段は隠していたがる素上を他人に指摘されると、理性を失った怒りを見せるものですからね。それにこの映画を批判した人たちは、「ザ・プ レイヤー」の監督がそんな行儀のいい業界礼賛映画を撮ると本気で思っていたのかね? なるほど、ここには「欲望」や「ポリー・マグー おまえは誰だ?」のような時代の流れを超越した革新性はないし、「都市とモードのビデオノート」のような哲学性や都市論も展開されない。しかし、ここには撮影していく過程でアルトマンが目にしてきたファッション業界の現実が辛らつな形で描きだされたのではないだろうか。

確かに「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」「エル」といった実在の雑誌の名前 が登場し、架空の編集部員がお互いの雑誌を罵ったり(「部数はうちの方が上」「セッ クス記事満載だから売れるのよね」)、ソニア・リキエルをモデルとしたデザイナー が「時代遅れ」と評されたりと、奇妙なリアリティがこの映画にはある(ちなみに公開当時、共にこの映画を批判した「ヴォーグ」と「ニューヨーク・タイムス」が、数年後ファッション・ジャーナリズムのありかたを巡ってやや大人気ない大論争をした。 思えば、アルトマンはこうしたことも見抜いていたのではないだろうか)。 しかし、この映画はそうした現実や時代流れと密着しながらも、最新流行を捉えただ けの底の浅い映画にはならなかった。作品の根底に鋭い批評性があったからこそそうならなかったのだろう。   

ローレン・バコールからジュリア・ロバーツにいたるまで、それこそ幅広いキャス トが贅沢なかたちで起用され、お金をふんだんに使って、好き勝手なことをやるアル トマンの悪ノリぶりが遺憾なく発揮されていて、その洒落っ気は十分楽しめる。「ひ まわり」のパロディのような設定と、「昨日・今日・明日」を思わせるシーンなど、 ソフィア・ローレンとマストロヤンニの「再会」なんて最高じゃない?  

さらにこの映画の持つ華やかさは、僕たち一般の人間が、ファッションやモデルた ちを憧れや羨望の眼差しで眺めるのと似ている。スターやモデル、デザイナーを画面 の上に並べ立て、さながら昔のオールスター映画のような楽しさだ。基本的な話など ないも同然だし、サンドイッチを喉に詰まらせて死んだプレタポルテ協会会長の死を巡ったサスペンスなんてほとんど馬鹿げている。いや、この映画において「ストーリー 」など必要ないのだ。  

フォレスト・ウィテカーとリチャード・E・グラントがそれぞれゲイのデザイナーを演じ、ウィテカーはトム・ノヴァンブル演じるアシスタントとも恋愛関係にあるの だが、彼はリチャード・E・グラントのアシスタント(女性)とも関係がある。また リリ・テイラー演じるニューヨーク・タイムスの「男とは寝ない」ファッション記者が、トランスセクシャル/トランスジェンダーのパーティに潜り込み、さるファッショ ン界の大物を目撃してしまうシーンもあるが、まさかこれらのシーンを観て、「セク シュアル・マイノリティを茶化して描いている!」なーんて、目くじら立てて怒る人もいないと思う。もしそういう風に怒っている人というのは、前述のファッション業界の人たちを同じで、視野狭量 としかいいようがない。アルトマン流の毒の含んだユー モアを楽しみぐらいの余裕は持ちましょう。  

ローレン・バコールは、「私の出演シーンはもっとあったのにカットされてしまった」とアメリカの新聞に語っていたが、もしそうなら(というよりアルトマンならありそうだが)もっとオクラ入りした映像が残っているに違いない。僕の希望としては、 いつしかそうした未公開映像を含めたディレクターズ・カット版が上映されることな んですけどね。例え時代が流れ、あの映画に出ているスーパーモデルの顔をみな忘れたとしても、この映画に含まれた毒は時代を超えて強烈なものだろうから。

(北条貴志)

 
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