<第4回>「月の瞳」
written
by 満月
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制作から7年を経てなお非常に人気が高いこの作品を、正直いってワタシはあまり好きではなかった。
初めて見たのはもう5年くらい前の話で、その時の感想を事細かに覚えているわけではないけど、とにかく主人公の人物像に共感が抱けず、ただただ画面の美しいお伽噺、そんな言葉で片づけることが多かった。
だから、『月の瞳』について書け、と言われたとき、正直言って不安だった。いったいどんな前向きな言葉がワタシの中から出てくるだろうか、と。
幸いにもそれは杞憂に過ぎなかった。数年を経るうちにワタシが変わったということだろうか。
あのときまったく好意を抱けなかったカミールに、ワタシはものの見事にシンクロしながらペトラに惹かれていく。
神学校で神話学を教えているカミールは、上司から昇進を打診される。しかしそれには同僚であり恋人であるマーティンとの結婚が条件だった。
当然マーティンはカミールに求婚するが、同時に起きた愛犬の死に、カミールは犬ほどにはマーティンを愛していないと気づく。
その夜、コイン・ランドリーでカミールに出会ったサーカスの団員ペトラは、カミールの泣き顔の美しさに恋に落ち、洗濯物をすり替えて再会を果たす。カミールもまたペトラに惹かれるが、同性を愛することへのとまどいが彼女を押しとどめた。
しかしマーティンが学会へ出張した週末、遂に二人は夜を共にする。そのことを知ったマーティンと、サーカス団の移動で離れていこうとするペトラの間で、カミールは煩悶する。
神学校をはじめとするカミールの(もしくは観客であるワタシたちの)現実とサーカスとは、薄い天幕を隔てただけですぐ隣に存在するものである。
しかし木戸銭を払い、ひとたび天幕をくぐると、そこにあふれる幻想はまったく現実のものではなく、あたかも異空間に迷い込んだかのような思いをもたらす。
洗濯物を抱えてペトラを訪ねたカミールは、観客としてサーカスに接したのではない。彼女は団員が生活を営む中へ、裏口から入っていく。
もちろんそれはカミールとの生活とは無縁の異世界には違いないのだが、その中における彼女の立場はもはや観客ではありえず、闖入者とはいえども主体的な関わりとなる。
また逆の側から見れば、ペトラは「サーカス団員」としてではなく、コイン・ランドリーというまったく生活上の場所に居合わせた人間としてカミールの世界に現れた。
二つの世界の境界線上とも言えるような場所での二人の邂逅は、まったく違う世界に属するはずのお互いを違和感なく受け入れさせたのではないか。もちろん互いを知るに連れて世界の隔たりが明らかになり、二人を悩ませることにはなるのだが。
神学校とサーカスという二つの世界は、そのままカミールの現実とペトラの現実であるわけだが、それはまた「異性愛と同性愛」という二つの愛のかたちに通じる。
ここで明らかなのは、拒絶する権利、または選択する権利は、常にカミールの側にあるということだ。
サーカス団員が神学校の世界に入っていくことはできない。同性愛者が異性愛の世界に入っていくことはできない(語弊が生じる言い方だが、この場合の「異性愛の世界」とは、同性愛を異端視するキリスト教世界のことである)。
実際、ペトラは決定権をカミールに委ね、自らはサーカスの中で待つことしかできない。
メタファーというには明らかすぎるような決定的な力を持ってカミールを導くのは、繰り返し現れる空中ブランコのシーンである。頭上彼方の空中で妖しく絡み合う二人の女性は、落下の不安がつきまとうにも拘わらず、実に自由で美しい。
または、命にかかわる危険が伴うからこそ美しさも増すのだろうか。
このシーンが繰り返されるたび、カミールの心は揺らぎつつも確実にある方向へ動いていく。
もう一つのメタファーは、物語の冒頭で不意に死に、埋葬されることなく冷蔵庫で眠り続けるカミールの愛犬である。
彼女の最愛の存在であったこの犬の「死体」は、彼女の愛そのものである。いったんは雪の中に葬られたこの愛は、カミールが世界を選び取ったときには再生し、雪原を走り去っていく。
外側から眺めていると、幻想はひたすら美しく何とよるべなく見えることか。
しかし幻想の世界に足を踏み入れその地の住人となったとき、人はそれが血と肉を伴ったまぎれもない現実であると知るのだろう。
(2002/04/04up)
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