<第6回>「裸のランチ」
■ 名作は手強い
written
by 北条貴志
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有名な小説や戯曲を映画化するのは難しい。名作と呼ばれる作品は当然のことながら高い知名度があり、広範な読者を得れば得る程、各人が独自の原作像を念頭に置いて観るため、眼前にあらわれたお馴染みのキャラクターと話の展開と理解し難い映像の組み合わせに戸惑い、それを拒絶するのだ。エミリー・ブロンテの「嵐が丘」を盲目的に愛する者は、ウイリアム・ワイラ-版は許せても、ルイス・ブニュエル版には躊躇し、吉田喜重版には難色を示し、ジャック・リヴェット版に至っては恐らく理解不能になるだろう。そう、名作は手強いのだ。
僕が「裸のランチ」を読んだのは、高校生の時だった。試験期間中に近所の図書館に行き、その奇妙なタイトルに惹かれて手に取ってみたのだった。その当時、自分のセクシュアリティには揺れ動いていた時期で、女の子と付き合ってはいたが、男の先輩に対する憧れを超えた気持ちも押さえきれなかった。人気のない浜辺で女の子を抱き締めながらも、どこか自分の本当の好みが違う所にあるような気がして仕方なかったのだった。そうした時期に「裸のランチ」を読み、今まで読んだことのなかった破天荒な文体や構造に面喰らいはしたものの、それ以上にそこに描かれたゲイセックス描写に異様な興奮を覚え、そのまま図書館のトイレでオナニーをしてしまったものだった。そこにはなにか自分が本当に求めていたようなものがあったように思えたのだった。以来、バロウズの本は何冊か読んだが、「裸のランチ」を超える衝撃はなかった。
それから後、「裸のランチ」の映画版が製作されると聞いた時、あれが映画になるの? という思いでいっぱいだった。日本で上映された時、クローネンバーグの映画はまあまあ好きだったので、それなりに期待して観に行ったのだが、正直言ってただたんに退屈なだけだった。
僕はなにも原作の映画化が、その作品世界の忠実な映像化でなければならない、という保守的な考えは持っていない。ケネス・ブラナーの「ハムレット」は単なる舞台中継の域を出ず、シェイクスピアを読み返そうという気すらなくしてしまうが、「ハムレット」を上演する劇団をコミカルに描いたエルンスト・ルビッチの「生きるべきか死ぬべきか」はその洒脱な演出も相まり、官僚的に演出されたイギリス版やロシア版を超えた魅力がある。
要はその原作を基に、どれだけ映画監督が独自の作品世界を創造的に解釈できるか、という点につきるのだろうか。残念ながら「裸のランチ」は原作にあったドラッグやセックス、同性愛といった要素を表層的に描いただけで、その深奥にあるものはすべてきれいさっぱり消えてしまっていた。バロウズの原作それ自体がものすごく映像的で、それはどんな映像を持ってしても、そのイマジネーションにはかなわないだろう。
原作にあった明晰かつ簡潔な文章から滲みでてくる妖気が、映画版では去勢されてしまったのだった。コカインだと言われて吸ってみたら、実は小麦粉だった、というかんじでしょうか。
クローネンバーグは「M.バタフライ」で再度ミソをつけてしまうのだが、セクシャルなものを描くことがダメなのだろうか。そのクールに突き放した作風が災いをよぶのか、どこかガラス越しに他人のオナニーを見ているようなかんじを受けるのだ。例えば「クラッシュ」の中で、ジェイムズ・スペーダーが車の中で男とアナルセックスをするシーンがあるが、「車の中であのポーズでやるのは大変だろうなあ」とは思っても、そのシーンからはなんらセクシャルなものも官能性も感じられなかった。間違ってもそのままトイレに飛び込んでオナニーしようという気にはなれなかった。
僕は「裸のランチ」を何度か読み返し、詩人・鮎川信夫により透明感溢れる日本語に訳された文章は何度も堪能したが、あの高校生の時に読んだ最初の衝撃は今なお脳裏に焼き付いて離れない。もの凄いイマジネーションで翻訳された映像版に出会えるときは来るのだろうか。それともそれは僕の記憶にだけ存在するのだろうか。
(2002/06/17up)
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<第7回リレーエッセイ予告>
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