6.
<善良なゲイ>から<真の人間表象>へ
~ゲイはやっと一人の人間になった
最近では、ゲイの表象は非常に多様になってきている。ゲイが目に見えるようになってきた結果、映画製作者がより多くのゲイと知り合うことができるようになったことも一因だ。一方、ゲイの映画作家たちにとっては、自分の経験をよりストレートに表現できる時代がやってきたわけだ。かくして、『恋愛小説家』(ジェームズ・L・ブルックス、1997)のようなは<道徳的に正しいゲイ>もちろん、前述のような戯画的なゲイの描き方まで可能になってきた。『フローレス』(ジョエル・シューマッカー、1999)では、ロバート・デ・ニーロ演ずる心臓麻痺で動けなくなったホモフォービックな警官と対峙するドラァグクイーンを描いた。このフィリップ・シーモア・ホフマン演ずるドラァグクイーンは、堅物の警官を次第に魅了していくが、最後に業の深さを見せる。一人のドラァグクイーンの中に善と悪を同居させようとしたのだろう。
たしかになかには、道徳的に正しくないゲイも現れる。たとえば、少年に睡眠薬を飲ませて犯してしまうが、他にもおよそ“幸せ”とは程遠い変態たちが集っているため、そうした男性も一風景となってしまう『ハピネス』(トッド・ソロンズ、1998)。あまりに強い同性愛嫌悪を内面化しているためゲイを許容できず殺し、自分も自殺してしまう『アメリカン・ビューティー』(サム・メンデス、1999)。これらの例では、一見、悪しき過去――「自殺と他殺時代」――を繰り返しているようにみえる。しかし、さきほど論じたとおり、ゲイのポリティックスが脚本や映画を束縛していた時代を経て確信犯的に作られたものなのだから、過去の映画ほど無神経ではありえない。結局ゲイの現実のなにがしかを表象している。事実、それが犯罪に結びつくことは少ないにしても、少年好きのゲイはいるし、強い自己否定感情――内なる同性愛嫌悪――を持っている人もいるのである。
ゲイの歴史には確かに負の側面もあるし、ゲイの中にも(ヘテロセクシュアルの人と同様)悪人もいる。映画の中でも、現実世界にもゲイの<善良な人>が目に見える形で多数出現した現在では、まさか1本の映画で<ゲイ=小児性愛者>などという誤ったステレオタイプを持つ人もいないだろう。もちろん、映画館で『アメリカン・ビューティー』の上映中、ゲイネタのエピソードに観客がクスクス笑うという状況もあり、“啓蒙”という観点からは「正しいゲイ」だけを映画は描きつづければいいのかもしれない(ちょうど、小学校の国語には「道徳的に正しい人間」しか出てこないのと同じように)。またゲイ映画に描かれるゲイ像に偏向があったり、悪意に満ちた表現であってはならないから、注意深い監視は必要だ。しかし、あまりに<政治的に正しいゲイ>だけを追及する状況が実際に起こると、映画を貧困にしてしまうことも事実だ。事実、先述の通り、無理にでもゲイ・アイデンティティを称揚するタイプの映画にも、不自然さがついて回っていた。そうした時代を経て、ただ単にゲイを「善良な人=政治的に正しい人」として描くのではなく、ゲイの生き方を通じて人間存在の深み、人間そのものを描くことができるような時代に、われわれは、今、やっと立ったといえる。その意味では、同性同士のセックスの経験者でもある天才数学者ジョン・ナッシュを描いた『ビューティフル・マインド』(ロン・ハワード、2001)で、そうした逸話がまったく差し挟まれることがなかったのは、残念としかいいようがない。
(2002/06/13up)
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