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<最終回>「河」

written by 中野はぢめ
人はその人生の中で自分自身に到達しようともがく生き物だが、自分一人のことを解き明かす前に多くの者は死んでしまうものらしいと、故ヘルマン・ヘッセは著書「デミアン」の前書きの中で触れている。所詮自分の殻を破るなどということは幻想で、その枠を超えられないまま人間は、全ての人に唯一平等な時間という河の流れに身を任せるしかないのだろう。

蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督の「河」(原題:「河流」)は台湾のある一家を淡々と描く作品である。家族構成は両親と一人息子シャオカンなのだが、両親は不仲。そのせいなのか、それともそれが原因で不仲になったのか、父親は仕事らしい仕事に就いている様子もない。母親も母親で、レストランで働き、外では愛想を振りまきながらも家では沈黙。それどころか男も作っている。さらにとどめが息子。息子も何だか毎日プラプラしているだけで、困ったヤツなのだが、何と話の途中から首が傾いて平衡感覚が減退し、痙攣が止まらないという奇病に冒されてしまう。

家庭内では完全に別居が成立し父親は食事の支度から、掃除、洗濯までする、年代的に見ても良い貫禄なのに、自立が著しくて状況を把握するまで一人暮しの初老のおじさんだと思ってしまう人もあるだろう。なぜならば前半分以上はこれら3人の人物が殆ど一人づつ、バラバラなエピソードで登場し、会話もないのだ。若いシャオカンでさえ働くでも、学校へ通うでもなく何だか頼りないヤツで、思わず「良い若い者が・・・」と、改めて若者じゃない私を再認識してしまう発言さえしてしまった。亜熱帯の国、台湾ならではと、いえなくもないが、それほどいたずらに、気だるい登場人物たちの時間が過ぎていくのだ。そんなシャオカンもやることだけはちゃんとやる。女の子とホテルで事に及んだりするのである。しかし、途中からシャオカンは「首が廻らなく」なり、平衡感覚も失われ、食事さえ自力で取ることがままならなくなってしまう。必死に病院へ連れて行ったりして、息子を気遣う父(しかし、そんな息子に原付を運転させて、首を支えながら後ろに乗る父。果たして恐くないのか? 危険では??  などと思ったへそ曲がりは私だけなのだろうか)。そんな、息子が罹患した原因不明の病気を軸に家族が一致団結するのか・・・と思わせる節もなく、溝は深まるばかり。相変わらず夫婦の間では会話もなく、母親はシャオカンの病気にも関心が薄い。父親とシャオカン、或いは母親とシャオカンという図式しかない。

しかも家に帰れば、父親の部屋はひどい雨漏りだ。典型的なコンクリート住宅なのだが、外に降る南方特有のどしゃ降りのスコール。これが部屋の中にもボタボタ降ってくるのだ。それはもう住人を嘲笑うかのように。けれどもそんなことには取り乱さず、冷静にバケツ、タライなどを総動員して、対処する父。実はラスト近く、母親が一人で部屋にいると足元に水が溢れてきて、異変に気付き、父親の部屋を開けるととんでもない雨漏りになっているというシーンがある。それはもう「ダバダバダバー」と、スキャット状態。などという呑気なものを通り越して部屋の中がスコールだ。母親はドアを閉めて「見なかったこと」「無かったこと」にしてしまおうかとするような行動にでる。しかし、呼吸を整えると水源を突き止めに上の階へ。生憎、上の住人は不在。すると母親は何とどしゃ降りの部屋を通り過ぎ、もっとどしゃ降りの本物のスコールをものともせずに、ベランダから上の階へよじ登り、部屋への進入に成功する。そして上階で出しっ放しになっていた水道を止めてホッとするというシーンがある。これは私にとって、ある種のメタファーとしては一番ゲイテイストを感じる部分であった。すなわち天上から降ってくる水が、持っている性嗜好などを表しているように思えたのだ。父親は「直面した現実」に対して冷静に対処するのだが、母親は、ひとたびそういった「現実」に直面すると、逃避してみたり、何かのせいにして自己正当化してみたり、あるいは逃げ出したり・・・色々なパターンで消化していこうとする。まるでゲイであることを自分自身で認めていく姿や、第三者としてゲイの存在を認めていくストレートのリアクションにオーバーラップしたのだ。

この映画では言葉も重要だ。字幕を見ているだけでは分からないのだが、表面的な行動パターンで隔絶しているだけではなく、父親と息子は台湾国語(いわゆる北京語)で会話をし、母親とは台湾語(方言の一つで北京語とは全く異なった音体系を持つ)で言葉を交わしている。台湾の言語環境では明代以降入植が進んでいた福建諸方言を日常的に話す漢民族の「本省人」と呼ばれる人々は日本の50年にもわたる植民地支配の皇民化教育を受けていたため北京語は話せず、共通語は日本語だった。戦後国民党が一党支配するようになって以来、大量移民して来た「外省人」と呼ばれる人々から突然共通語として「国語」を北京語に制定、押し付けられた経緯がある。それは同じ系統の言語でありながらも、一朝一夕に話せると言う訳にはいかないほど隔たった言葉だ。侯孝賢(ホウ・シャオシエン)監督の「非情城市」にも描かれているが、同じ民族(外省人)が同じ民族(本省人)を搾取したり、迫害、虐殺さえした歴史は異民族によるそれよりも哀しく、今でさえ「本省人」と「外省人」の対立は政治レベルから家庭内のものまで明らかに存在している。それゆえにお互いに意志の疎通もできないほどの隔たりを持った方言を意図的に家庭内で使うことの重大性、根の深さは胸に迫るものがある。この「言葉による対立」は、ヨン・ファン監督の「美少年の恋」の中にも見受けられ、特定の人間同士は北京語で、あるいは広東語で、または英語で会話し、バックグラウンドを暗喩する働きをしている。

話が前後したが、そんな中、あちらこちらと献身的に息子を治療に連れてまわるのは父親で、整体師や医者にかかったり、泊まりがけで祈祷師のところに行ったりするのに至るまで二人で行動を共にする。母親が治療に携わるのはごく初期に首に薬を塗ってやったり、「湿布を買いなさいよ」とアドバイスするシーンぐらいだ。殆ど唯一といって良い、夫婦の会話(と言っても父親が一方的に母親に叫ぶだけ)は病院の廊下で交わされるが、それでさえ自暴自棄になっているシャオカンを前に、母親が現実逃避して行ってしまおうとしたのを引き止めて、「お前の息子だろ!」と発する声だ。もはや二人を繋いでいた唯一の理由「息子」でさえ、かすがいの役割を果たさない。

そのような治療の日々の合間に、「ちょっと出掛けてくる」と背筋をピンと張ってスタスタ前を見て、こざっぱりした格好で歩く父親の行き先はハッテンサウナだ。きっと父親の現実逃避(或いは解放)はこういう形でしか得られないのだろう。薄暗いサウナの中で腰にタオルを巻きつけて男を求めてあちらこちらへ回遊する人々。或いは個室の中で横たわり「待ち」に徹する男たち(因みに父親は「待ち組」である)。やがてここに、不自由な身体でシャオカンもやって来て、首を傾けて痙攣しながら入場料を払い、まずシャワーを浴びて身を清め、そしてついに父親のところに辿りつくシャオカン。やがて、暗闇の中で父親の手によって果たされてしまう。父親は行為を終えた後に明かり点けて、そこにシャオカンの姿を認め愕然とするのである。しかし偶発的だったのは父親の側だけであって、シャオカンには意図的なものが介在しており、父親に抱かれる目的のためにサウナに来たとしかいいようがない。行為の前にシャワーを浴びるシャオカンの決意を思わせるほどの毅然と真っ直ぐな、純粋な気持ちを予感させる、祈るような姿が印象的だ。そして、行為のシーンで、薄明かりに浮かび上がった二人の姿はまるで宗教画のように、ある種の荘厳さを醸しているほどで、今も広く我々を日常生活の意識上も縛っている各種の倫理観などを飛び越えた次元で交わっていた。しかし、恐らくそんな二人も河の流れの中ではお互いに触れることは出来ても、それ以上は得られずに下流に運ばれて行ってしまう、ただの人間の性を出られないのだろう。今日も答えなんか見付からないまま、救いがないままに河は皆を乗せて変わらずに流れていくのだ。

もしも自分の部屋が雨漏りしたらどうするだろう。見ない振りが出来るだろうか。それとも・・・。

(2002/07/18up)
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■河■
He liu/The River(1997)

監督:蔡明亮
配給:ユーロスペース


IMDb data
http://us.imdb.com/Title?0119263

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