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■大砂塵■
johnny guitar(1954)
 
監督:ニコラス・レイ
出演:ジョーン・クロフォード
スターリング・ヘイドン
スコット・ブラディ
ア−ネスト・ボーグナイン

ビデオ発売:東北新社

IMDb data
http://us.imdb.com/Title?0047136
<第3回>「大砂塵」
written by papillon
「大砂塵」についてレビューを書いて下さいって? 監督がニコラス・レイで1954年の作品ですか。ニコラス・レイというと「理由なき反抗」の監督だよね。それで内容は、女が主役の西部劇? それって「クイック&デッド」みたいなの? え? 全然違うの…。

映画の軸となるのはこの4人。まず主人公、名前はヴィエンナ。別にガンウーマンって訳でもなく、街の外れにある酒場の女主人です。出立ちは男装の麗人といった感じ。それから店の常連のキッドは現在のヴィエンナの愛人で、ギャング団のボス。このキッドに恋をしているが、ヴィエンナのせいで相手にされないエマ。彼女は街の権力者の娘で、ヴィエンナを街から追い出そうと画策します。そこにヴィエンナのかつての恋人ジョニー・ギターこと、伝説のガンマン、ジョニー・ローガンが5年ぶりにヴィエンナに会いにやって来ることから物語ははじまります。

この映画は、徹頭徹尾、女と女の戦いです。最初はエマの一方的な喧嘩で幕を開けます。というのも冒頭で馬車がギャングに襲撃されるシーンがあるのですが、そこにエマのお兄さんがいあわせて、死んでしまうのです。エマは襲撃したギャング達はキッド一味で、愛人のヴィエンナもその仲間だろうという、一方的な言いがかりをつけて、ヴィエンナの店に仲間と保安官を連れて押し掛けてきます。ヴィエンナは全然関係ないので、全く取りあわず、無罪を主張しますが、結局キッド達は襲撃犯ということになり、街から追放。ヴィエンナの店も営業停止になってしまいます。キッド達は、最後にでかい事をしようと銀行強盗を企みます。不幸なことに、というか脚本都合よすぎって感じはしますが、そこでヴィエンナと鉢合わせ、彼女はキッドを諌めるのですが、引っ込みがつかなくなってしまったキッドは、聞く耳持たずに強盗を強行、山に逃げていきます。

当然、黙っていないのはエマです。怒りと嫉妬に完全に支配されたエマは町中の男達を集めてヴィエンナの店に乗り込みます。「キッド達をかくまっているだろう、引き渡せ」と。またも不幸なことに、というか脚本都合よすぎなんですが、店には、ケガをしたキッドの仲間がいます。当然、期待通りの展開で、ヴィエンナがエマ達を何とか説得できると思った瞬間に彼は見つかってしまい、ヴィエンナも銀行強盗の仲間に無理やりされてしまいます。そして、権力を傘にきたエマがどんどん偽証させて、ヴィエンナを死刑に持っていきます。ヴィエンナの首に縄がかけられ、あわや一巻の終わり、という時にジョニーが助けに来て、二人はキッドの隠れ家に逃れます。

そして、エマとヴィエンナの最後の対決になるのですが、ここで面白いのは、男達はヴィエンナに最終的に手を出さないんですよね。縛り首のときもそうなんですけど、足場を崩す執行役の男が「俺には女はやれない」と言って、エマがやることになる。最後のシーンでも「これは2人の問題だから決着は2人に任せよう」ということになり、小屋の端と端に立って早打ちで勝負になります。キッドが心配のあまり、ヴィエンナの名前を呼ぶと、エマが反射的にキッドを撃ってしまう。その隙をついて、エマを倒してジ・エンド。ヴィエンナはジョニーとその場を去るという場面で終わります。

この映画、西部劇ということになってますが、別に派手な銃撃戦があるわけでもなく、保安官対何とかみたいな西部劇お定まりの構図も存在しません。結構どろどろした人間ドラマなんですね。従来の映画だと、そうした話でも軸になるのは男です。男が主体的に振る舞って、何とか話を終わりまでもっていくのですが、この映画は、男が話の中心に主体的に関われない映画、強引な結論付けをするとこういうことになる思います。確かに原題は「Jhonny Guitar」だけれども、別にジョニーは主人公ではなく、ヴィエンナの危ないところを助けてくれるナイト役に過ぎません。

この映画、男の論理を受け付けないんですね。決定権は常に女の側にあります。ジョニーがヴィエンナの身を案じて、「エマ達が来たら銃を持って闘うんだ」と言うと、ヴィエンナはその申し出をはねつけ、話し合いで何とか解決しようとする道を選ぶ。それは、エマに先導された集団ヒステリーのような群衆の前には無力だったりするんですけど、だからといって男達は、彼女の考えを翻すことは出来ないんです。   
   
話の中心となる2人の女、ヴィエンナとエマ。良いものと悪いもの(エマって本当にやな奴なんです)、愛されるものとそうでないもの、新しいものと古いもの、そうした二項対立のモデルとして、この2人の関係は読むことが出来ます。新しいものと古いものの対立として読めるというのは、彼女がエマと敵対する理由の一つとして、彼女がよそから来た人間であるということがあげられます。エマを中心とした街の人間は、よそ者に対して非常に排他的なものとして描かれています。ヴィエンナの店の近くに鉄道が通る予定があるのですが、エマはそのことにも嫌悪を隠しません。「よそ者が入ってきたら、静かな生活はめちゃめちゃになる」と言い放ち、自分達の利権を守ろうとする。古いものに固執するものが、新しい考えを無理やり排除しようとする、その点では読み方によってはリブ系とか運動系の人もヴィエンナの境遇に感じるものがあるのではないでしょうか。

最後の場面はちょっと納得いかないな、という感があります。何故かというと、最後だけは、ヴィエンナは弱い女みたいな描かれ方をされてしまうからなんですけど。まあ、この当時、これだけ主体的に行動する女性を描いたものは無いのではないか、と言う点では一見の価値があると思います。

(2002/02/21up)
<第4回リレーエッセイ予告>
次の人へのおすすめは、「月の瞳」
この映画は、主役の2人が綺麗。という非常にオヤジな理由で推薦してみました。神学の教師がサーカスの団員に惹かれていく。婚約者との安定した生活をとるか、それとも自由をとるか、信仰と快楽、なんていう二者択一に悩む主人公がなかなか見物です。内容もさることながら映像もとても綺麗です。さて、これを如何料理して下さるのでしょうか。
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