queer de pon

編集後記。
あるスタッフの日常

「名前の秘密」
(2001.3.30)

みなさんは、“Tony Leung(トニー・レオン)”という人名表記を見て、誰の顔を思い浮かぶのだろう? おそらく、多くの方が思い浮かべるのは王家衛(ウォン・カー ウァイ)監督の「恋する惑星(重慶森林 CHUNGKING EXPRESS)」の後半の主役の警 官、あるいは「ブエノスアイレス(春光乍洩 HAPPY TOGETHER)」で軸となる主役、 梁朝偉(トニー・レオン)のことを思い浮かんだのに違いない。しかし、もし周りに外国人の人がいるなら聞いてみると、おそらく彼らは“Tony Leung”はそんな映画に出てなく、 “Tony Leung”が出た映画は「愛人 ラマン(L'Amant)」(監督:ジャ ン・ジャック・アノー)だ、と答えるのかもしれない。試しに、ビデオを借りてクレジットを見ると、「愛人 ラマン(L'Amant)」のエンディング・ロールに流れるク レジットに紛れもなく“Tony Leung”の名を見つけることが出来るのであろう。しかし、そのどちらの答えも間違ってはいないのです。なぜなら、外国人の言う“Tony Leung”は、日本でこそレオン・カーファイ(梁家輝)という名で知られているが、 彼もまた“Tony Leung”なのです。

知っている方も多いかと思うが、香港の人の多くは中国名(漢字)のほかに、英語名を持っている。おそらく、これは英国植民地時代からの習慣かと思われる。しかし、 その英語名は親からではなく、学校の先生によって名付けられていることが多いのだ。そこには特にルールは存在せずに、先生のひらめき一つで、英語名が決まる。し かも、英語名は別に届けられないので、いつ変えてもいいし、自称でもいっこうにかまわない。その英語名のせいで日本人にとってはややこしいことが起こったわけだ。
現在、日本でよく使われる香港の役者・歌手の人名表記には梁家輝(レオン・カー ファイ)のように名前を広東語読みされる人と、梁朝偉(トニー・レオン)のよう に、英名を使われている人に分かれる。その使い分けは何かのルールがあるわけでも なく、おそらく最初に紹介した人がそのように使い分けただけに過ぎないと個人的に 思う。日本人には漢字で見分けるという方法があるのだが、漢字を持たない外国人が 頼りにするのは英名だけ。そして、梁朝偉(トニー・レオン)と梁家輝(レオン・ カーファイ)の二人の内、早く欧米デビューしたのは梁家輝(レオン・カーファイ) であるため、“Tony Leung”として認識され、上記の勘違いが起こるわけだ(ちなみに、梁朝偉(トニー・レオン)はアジア圏の監督映画にしか出ていない)。しかし、 これからはおそらくは二人とも“Tony Leung”として認識されるのであろう。というのも、梁朝偉(トニー・レオン)が昨年のカンヌで最優秀男優賞を受賞した王家衛 (ウォン・カーウァイ)監督の最新作「花様年華(IN THE MOOD FOR LOVE)」の欧米 公開が決まり、また「TIME」誌毎年末恒例の「The Ten Best People of the Year」にも選ばれ注目度が高まっているからだ。

日本公開待機作

梁朝偉(Tony Leung Chiu-Wai トニー・レオン):
「東京攻略(Tokyo Raiders)」、「花様年華(IN THE MOOD FOR LOVE)」(銀座テアトルシネマ、渋谷Bunkamura ル・シネマにて上映中。)
花様年華 
オフィシャルホームページ
http://www.shochiku.co.jp/kayounenka/index.html

梁家輝(Tony Leung Ka-Fai レオン・カーファイ):
「天上の恋歌(こいうた)(天上人間/Love Will Tear Us Apart)」(4月頃)

(ScH)

「同じマイノリティーのはず」
(2001.3.30)

ヘテロで、しかもマイノリティーの存在さえ気にしない人にとっては、ゲイも ビアンも、TSもどれも同じに思えるかもしれない。でも中では微妙に細かく立場や主 張が分かれている。それぞれで活動している場合もあるし、時には互い協力すること もある。「性」を考えるという点では一緒なのだから、お互いのネットワークを利用 して活動したほうが、もっと効果的である。

わたしは前回の映画祭のとき、パンフレットを女性センターにも置いてもらおうと考えた。女性センターに集まるのはビアンではないけれど、少なくともジェンダーについて考えている人たちである。性別 による押し付け、役割分担に異議を唱えている人たちである。なので、映画祭の趣旨にも共感するはず、と考えたのだ。わたしは早速女性センターのリストを取り寄せ、電話をかけ始めた。

電話をして驚いた。「置いて欲しくない」という女性センターの多いこと! うちの(高尚な)な活動といっしょにしないでほしいといわんばかりの応対である。 わたしは男女差別の問題も、ゲイやビアンなどのセクシャルマイノリティの問題 も、性の固定観念に縛られて、個性が認められてない社会であるがゆえに起こる問題であると考えているのだが、彼らにとってはそうではないらしい。

まえ、20年以上もフェミニズムの活動をしているという人の書いた本を読んでい て、同じようなことを感じた。彼女は映画の中に出てくるセリフを分析して、男女差別 を摘発していた。たとえば、「君を守りたい」というセリフは、女への愛の言葉のように見えて、実は女をいまだ弱いもの扱いしている・・・・そのように分析してい た。映画の中の細かいセリフに実に敏感に反応している一方、ゲイがでている映画を取り上げて (普段は自分達を支配している男どもが逆の立場になって、彼女はいい気分なのか)、「これは多いに楽しめる映画だ」としていた。確かに男女差別 的な観点からだけ見れば、そう思えるかもしれない。だが、まがりなりにもマイノリティの活動をしている人が、ゲイが笑いものにされているその映画を見て何も差別 だと思わないとは!

これは性のマイノリティに限った話ではない。高齢者・障害者にも優しい社会を、 と言われるようになって、公共の場所にエレベーターやエスカレーター、段差の少な いステップバスなどを多く見かけるようになった。一見そういった人たちに配慮されているかのような社会。だが実際は駅のエスカレーターはいつも上りになっている。 私たちにとってそれは楽だ。

しかし、実は体の不自由な人にとっては、階段は「くだり」のほうがつらい。足が筋肉痛のとき、くだりのほうがつらいという経験をしたことがあるだろう。くだりはバランスをとりにくい上、転落する危険性もある。 エスカレーターは結局は健常者の利便のために使われている。 せっかくの設備が整っていても、使う人たちの意識が変わらない限り、”少数者”は 苦労するのである。

(ユミコ)

「他人の会話」
(2001.3.5)

他人の会話を聞いてて、(それは違うだろー)と思うものの見ず知らずな人であるがゆえに何もいえず、歯がゆい思いをしたことはないだろうか?

私は映画祭にかかわるようになってから、外食が増えた。ミーティングの前に一人でファーストフード店に入る。お店の中にはわたしの様に一人で手軽に食事を済ませるためという人や、学生などの”金はないが時間はある”、という人たちで溢れかえっている。一人でいると嫌でも彼らの会話が耳に入ってくる。

このまえわたしの隣にいたキャバクラの客引き風の男は、どういう理屈でそうなるのか
「オレ、基本的に借金のあるやつしか、信用しないんだよね」
と話していた。そんなのが”基本的”になってしまった彼の人間関係は一体どうなっているのだろう。

またあるときは、私の右隣の女子中学生(小学生かもしれない)のグループが、 「初めてのデートでキスするなんて早すぎ!」 なんてかわいい話題で盛り上がっていた。

そうかと思えば、わたしの左隣の女子高校生風の子は 「最近アソコかゆくてさ〜」 なんて話している。何たる違いと思ったが、この中学生の子達も何年か後には、どこの性病科が良いかの談義に花を咲かせるようになるのかと思うと心が痛む。

他人の会話を聞いてて『なるほど』と感心することもあるし、同じ時代に生きて、同世代にもかかわらず自分とまったく価値観の違うことに驚いてしまうこともある。驚くことのほうが多いかもしれない。

だが、私や他の映画祭スタッフの会話を聞く他人だって、かなり驚くだろう。なんたって、レストランでも電車のなかでも「ノンケ」だの「ハッテン」だのが飛び交うのだから!! おわり

(ユミコ)

2001年2月分

2001年1月分

2000年12月分

TOP top