「同じマイノリティーのはず」
(2001.3.30)
ヘテロで、しかもマイノリティーの存在さえ気にしない人にとっては、ゲイも
ビアンも、TSもどれも同じに思えるかもしれない。でも中では微妙に細かく立場や主
張が分かれている。それぞれで活動している場合もあるし、時には互い協力すること
もある。「性」を考えるという点では一緒なのだから、お互いのネットワークを利用
して活動したほうが、もっと効果的である。
わたしは前回の映画祭のとき、パンフレットを女性センターにも置いてもらおうと考えた。女性センターに集まるのはビアンではないけれど、少なくともジェンダーについて考えている人たちである。性別
による押し付け、役割分担に異議を唱えている人たちである。なので、映画祭の趣旨にも共感するはず、と考えたのだ。わたしは早速女性センターのリストを取り寄せ、電話をかけ始めた。
電話をして驚いた。「置いて欲しくない」という女性センターの多いこと!
うちの(高尚な)な活動といっしょにしないでほしいといわんばかりの応対である。
わたしは男女差別の問題も、ゲイやビアンなどのセクシャルマイノリティの問題
も、性の固定観念に縛られて、個性が認められてない社会であるがゆえに起こる問題であると考えているのだが、彼らにとってはそうではないらしい。
まえ、20年以上もフェミニズムの活動をしているという人の書いた本を読んでい
て、同じようなことを感じた。彼女は映画の中に出てくるセリフを分析して、男女差別
を摘発していた。たとえば、「君を守りたい」というセリフは、女への愛の言葉のように見えて、実は女をいまだ弱いもの扱いしている・・・・そのように分析してい
た。映画の中の細かいセリフに実に敏感に反応している一方、ゲイがでている映画を取り上げて
(普段は自分達を支配している男どもが逆の立場になって、彼女はいい気分なのか)、「これは多いに楽しめる映画だ」としていた。確かに男女差別
的な観点からだけ見れば、そう思えるかもしれない。だが、まがりなりにもマイノリティの活動をしている人が、ゲイが笑いものにされているその映画を見て何も差別
だと思わないとは!
これは性のマイノリティに限った話ではない。高齢者・障害者にも優しい社会を、
と言われるようになって、公共の場所にエレベーターやエスカレーター、段差の少な
いステップバスなどを多く見かけるようになった。一見そういった人たちに配慮されているかのような社会。だが実際は駅のエスカレーターはいつも上りになっている。
私たちにとってそれは楽だ。
しかし、実は体の不自由な人にとっては、階段は「くだり」のほうがつらい。足が筋肉痛のとき、くだりのほうがつらいという経験をしたことがあるだろう。くだりはバランスをとりにくい上、転落する危険性もある。
エスカレーターは結局は健常者の利便のために使われている。
せっかくの設備が整っていても、使う人たちの意識が変わらない限り、”少数者”は
苦労するのである。
(ユミコ)
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